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シェアクロッパー

アメリカの南北戦争後、南部に広がった黒人の小作制度。シェアクロッパー(分益小作人)はプランターから綿花生産を強制されたため自立の機会が失われ、黒人の貧困が続く要因となった。

 シェアクロッパー Sharecroppers は、crop(農作物)を share(分ける)するという意味で、一般に小作人と訳すが、世界史用語としてより正確には「分益小作人」を充てる。アメリカ合衆国の19世紀において、地主が土地と生産用具(住居・家畜・農具など)を小作人に貸し、耕作させて、収穫をあらかじめ決められた割合で分割(多くは折半)する制度である。農民の形態には他に、土地だけを借りて地代を払う「借地農」(テナント tenants )がいたが、それとは区別される。アメリカを二分した南北戦争によって、黒人奴隷制が廃止され、黒人は解放されたけれども、経済的に自立できず、シェアクロッパーになることが多かった。彼らは収穫の半分しか手にすることができず、生産用具の賃貸料や、その他の借金を返済しなければならず、身分的には解放されたものの、貧困から抜け出すことは出来なかった。その貧困が黒人差別をさらに呼ぶこととなった。
 黒人をシェアクロッパーとする南部の綿花プランテーションでは、南北戦争によって途絶えた市場を回復すべく、一層の綿花生産に依存するようになり、綿花栽培の強制は黒人の農民の食糧自給能力を奪っただけでなく、白人貧農にも及んでいった。

ヨーロッパの分益小作人

 ヨーロッパでは、封建反動といわれた14世紀以降に、地主が家畜・種などを農民に貸し付け、3分の1~3分の2の収穫物を現物地代として収めさせる分益小作制が広がった。16世紀のフランスのアンシャン=レジーム期に典型的に見られ、フランス革命後も南フランス、イタリアなどでは根強く残存し、その地域の後進性の要因とされた。(近代世界システムの項を参照)。この分益小作人(50%ずつ収穫物を分け合う場合は折半小作人とも言う)は、18世紀後半のアメリカ南部の黒人のシェアクロッパーは、世界史の上ではヨーロッパの分益小作人と同じ存在だったとされている。

奴隷解放後の南部の黒人

 1863年1月1日に出された奴隷解放宣言で解放された黒人の経済状況はどうだっただろうか。南北戦争中、黒人奴隷たちは、連邦軍(北軍)がやってくるとプランテーション(白人の経営する綿花などの農園)を離脱して北軍の後を追った。「奴隷たちにとって、自由とはプランテーションに拘束された生活から解放されることであり、移動の自由を得ることだった。」<貴堂嘉之『南北戦争の時代』シリーズアメリカ合衆国史② 2019 岩波新書 p.143>
自由以外に何もなし 戦争が終わると、かつてのプランテーションの館近くの奴隷居住区を離れて、黒人家族で居住区作りを始めた。解放後、「自由以外に何もなし」の状態で放り出された黒人たちはコミュニティを作り始めた。南北戦争後、綿花プランテーションの再開を急ぐプランターたちは、黒人取締法(ブラックコード)で移動の自由を奪い、プランテーションに縛り付けようとしたが、黒人たちにこれを拒んだ。黒人たちはプランター主から、それまでの無償労働に対する補償として、「40エーカーの土地と一頭のラバ」が分配されることに期待したのである。実際、共和党急進派は南部改革のため、プランターの土地を没収して開放された黒人に分配し、自営農民にするという提案もしていた。しかしわずかな例外を除き、民主党員や他の共和党員からもの反対があり、実施できなかった。南北戦争中、ホームステッド法によって西部の白人農民には一区画160エーカー(東京ドーム14個分)の土地が無償で払い下げられたのに対し、黒人向けにはその4分の1の区画分配ですら成功しなかったのである。<貴堂嘉之『同上書』 p.144>
(引用)結局、解放民は生活のため働かざるをえず、戦前からの土地を守ることの出来たプランターたちは彼らと労働契約を結び、結果としてシェア・クロッピング(分益小作)制度が生まれた。これは土地の賃料と貸付品(農具、ラバ、種など)の代金を、農民が収穫した作物で地主に払う制度である。この制度は黒人農民の家族労働を基盤に1870年代には南部社会に定着していくが、綿花生産を強制されるなどプランターとの関係は従属的なものであった。また、プランターからだけではなく、農村の商人からも生活品を現物で前借りし、綿花で債務を返済するクロップ・リエン制度によって、解放民は借金まみれとなり、ますます土地に縛られることとなった。<貴堂嘉之『南北戦争の時代』シリーズアメリカ合衆国史② 2019 岩波新書 p.144-145>
 南北戦争後の南部で復活した綿花プランテーションでは、戦争によって失った海外の綿花市場を回復するため、シェアクロッパー制を導入し、増産に努めた。商品作物である綿花の単作(モノカルチャー)が強制されたことによって、南部農村の食糧自給率は低下し、食料を外部に依存しなければならなかったことでさらにその貧困が続いた。このように解放後も南部の黒人が貧困状態に置かれたのは、黒人の怠惰のためではなく、南部社会の構造的な問題であることが明白であった。

黒人の債務奴隷化

 シェアクロッパーは南部で定着し、1880年代には南部農場の3分の1以上、1920年代には3分の2以上にまで昇った。この小作契約の作物質権や前借り制度などにより黒人たちは借金まみれとなり、いつしか債権奴隷化していた。白人貧困層でもシェアクロッパーとなるものが増え、世紀末には白人が黒人を上まわるようになった。
 それでも南部の再建期には、黒人は与えられた黒人投票権を武器に州議会に代表を送ることが出来たが、1877年のジョージア州を皮切りに、南部諸州で黒人の投票権を制限する動きが広まった。それは投票税の導入であり、たった1ドルであっても借金まみれの黒人にとっては投票禁止を意味した。さらに投票での識字テストも導入され、黒人たちは徐々に政治的な声を奪われていった。<貴堂嘉之『同上書』 p.182>

参考 デュボイスの描く黒人シェアクロッパー

 20世紀初頭から、二つの大戦の時期に、アメリカの黒人解放運動を指導し、第二次世界大戦後はアフリカに渡って黒人国家の独立運動にも関わったデュボイスが、1903年に発表し、いまだに黒人運動の主要な文献とされている本に『黒人の魂』がある。その本のジョージア州ドーアティ郡を訪ねたルポルタージュ風の文章の中で、次のように黒人がシェアクロッパーになっていった事情について述べている。なおここでいう「戦時」とは南北戦争のことである。
(引用)側面に大きなオーク樹の森が立ち並んでいる広大な平坦な畠のあるベイザン道路を降ってゆくと、一つの農園がある。あちらこちらに、そしてはるか大きな森のかなたに、この農園は、かつては何千エーカーにも広がっていたものである。ここでは1万3000人の人間が、ひとりの人間の声にしたがっていた、――かれらの肉体はこの人間のものであったし、さらに、まずたいていは、その魂も同じであった。彼らのうちのひとりが、いまでもそこに住んでいる、――丈の低い、ずんぐりした男で、冴えない褐色をした、皺のあるその顔は、しょげており、固い縮れ毛は灰白色である。作物は? まあ、やっとまにあう程度でさ、と彼は言った。やっとまにあう程度。何とかやっているのかい? いや、とんでもない、彼は何とかやっていっているといったようなものではなかった。オールバニィのスミスが、彼の「地主」だ。そして、彼の支払う小作料は綿花800ポンドだ。これじゃ、とても儲けるどころの騒ぎではない。なぜ、土地を買わなかったのかって? ふん! 金がなくちゃ土地は買えやしないじゃないか。彼はそっぽを向くのである。自由だとさ! 戦時におけるあらゆる酷い荒廃のうちでももっとも哀れな事柄は、つまり主人たちの破産とか打ち挫かれた母親たちや処女たちの希望とか一帝国の崩壊とかのうちで――これらすべてのうちでもっとも哀れな事柄といえば、世間が彼を自由だよと呼んだために、もっていた鍬を投げすてた黒人解放奴隷たちであった。自由にたいするこのような嘲弄の意味したものは何であったか? 1セントの金もなく、一寸の土地もなく、一口の食物もなく、――仰向けに横たわる襤褸さえもたないで。自由だって! 戦前は、土曜日になると、月に一度か二度、昔の主人が彼の所有する黒人たちに、ベーコンやとうもろこし粉を施してくれたものた。そして、自由の最初の閃光がしだいに薄れてゆき、解放奴隷にとって、真実、自分はどうにもならないということがわかりはじめた後では、一度は投げ棄てた鍬を拾いあげるために立ち戻ってきたのであり、そして昔の主人はやはり、ベーコンととうもろこし粉を施してやったのである。奉仕に関しての法的な形態は、理論的には昔とはるかに異なったものとなった。じっさいには、割り当て仕事、あるいは、「穫り入れ仕事」が、集団によってなされる毎日の苦役にとって代わることとなった。そして奴隷は、しだいに名目上は分益農民(メティエ)、すなわち、収穫を等分する小作人となった。だがしかし、その実は、賃金の不定な労働者となったのである。<デュボイス/木島始他訳『黒人のたましい』1992 岩波文庫 p.200-201>

南部農村でのシェアクロッパー

 デュボイスが『黒人のたましい』で分析した、20世紀初頭の南部ジョージア州ドーアティ郡オールバニィの黒人社会は次のような状況だった。
(引用)少数の貧民を交えた「10分の1の落ちぶれた」小作人(クロッパー)。40パーセントの分益農民(メティエ)と、39パーセントの半分益農民ならびに賃金労働者たち。残りの5パーセントは金貸し人であり、6パーセントは黒人自作農農民で、彼らはその土地のいわゆる「上層の10人」ということになる。小作人(クロッパー)たちは、まったく資本というもの――種蒔期から収穫期までのあいだ食っていくだけの食物とか金とかいう限定された意味においてさえ――がない。彼らの提供しうるものと言えば、労働がすべてである。土地所有者は、土地、家畜、道具類、種子ならびに家屋を提供する。そして、その年の終わりに、労働者たちは、作物の三分の一から半分を受けとる。しかしながら、この分けまえの中から、その年のあいだ彼が前借りした食物と衣服にたいする代金と利息が差し引かれる。このようにして、資本を持たない、賃金のもらえない労働者と、主として被雇用者たちの賃金を資本にしている雇用主とがいることになる。このことは、雇う側にとっても雇われる側にとっても、満足できない取り決めであり、ふつうは、こういうことは貧窮した所有者たちのいる貧しい土地によく見受けられる。<デュボイス/木島始他訳『黒人のたましい』1992 岩波文庫 p.215>
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貴堂嘉之
『南北戦争の時代』
シリーズアメリカ合衆国史②
2019 岩波新書

デュボイス/木島始他訳
『黒人のたましい』
1992 岩波文庫