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コッホ

ドイツ人の医師。細菌学の研究法を確立し、1882年に結核菌、翌年コレラ菌などを発見。ベルリンに伝染病研究所をつくり多くの研究者を育てた。

 ローベルト=コッホ(1843-1910)はドイツのハノーヴァーで鉱夫の子としてに生まれ、ゲッティンゲンで学び医者になった。卒業後は現在のポーランドのヴォルシュタインという小さな町の衛生技師として、粗末な実験室と顕微鏡で研究を始めた。まずその地域の家畜に流行していた脾脱疽に取り組み、細菌の検査法をあみだし、特定の感染症は特定の細菌が引き起こすことを突き止め、1877年に破傷風の病原菌を見つけた。こうしてコッホは全くの独力で第一流の医者になった。1880年、ベルリンに移り、国立衛生院に籍を置いて本格的な細菌学の研究を開始した。コッホは細菌を純培養するための培養液を、ゼラチンに肉汁を入れてつくり、1881年にロンドンの国際医学会で発表した。いあわせたパストゥールは彼の手を取って「これは重大な進歩だ」といった。様々な研究成果を持つパストゥールだが、細菌の純培養はしていなかった。

結核菌・コレラ菌の発見

 結核が伝染病であることは知られていたが、1882年、コッホが結核菌の培養に成功して、それが確定した。ついで翌年、エジプトとインドに行ってコレラ菌を発見、大きな業績が続いた。1890年には、培養結核菌ワクチンであるツベルクリンを発表した。ツベルクリンで結核が治ると勘違いした人々は結核が治らないので失望したが、ツベルクリンは結核の診断に欠かせなくなり、その予防に大きな役割を果たすこととなる。
 1891年には伝染病研究所が設立され、その所長となると、この研究所は世界で最も充実した研究機関となり、次々と研究者が病原菌を発見していった。日本の北里柴三郎は、東京大学卒業後、ドイツに留学し、コッホの下で研究に従事し1889年、破傷風菌の純培養に成功、それをもとに破傷風の血清をつくった。また志賀潔は1897年、伝染病研究所で赤痢菌を発見した。<小川鼎三『医学の歴史』1964 中公新書 p.196-200>
 1905年、コッホはその「結核に関する研究」によって、ノーベル賞の生理学・医学賞を受賞し、1910年に死去した。

鎌倉のコッホ記念碑

 コッホは、1908(明治41)年7月、北里柴三郎と共に鎌倉を訪問し、稲村ヶ崎の奥にある霊仙山頂から江の島・富士山の眺望を楽しんだ。帰国後数年で死去したので、1912(大正元)年、北里らはその地に記念碑を建てた。霊仙山はその後、関東大震災などで崩れて近づけなくなったので、現在では稲村ヶ崎に移されており、その経緯が北里研究所の設けた解説板で知ることができる。
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