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ベンガル地方

インド東部、ガンジス川下流の広大な三角州地帯。ムガル帝国ではベンガル太守が統治した。1757年のプラッシーの戦い以降、イギリス東インド会社が徴税権を獲得し、支配した。1773年にはベンガル総督を設けて直轄支配とし、19世紀には中国向けアヘンを栽培した。第二次世界大戦後、下流地帯は1947年独立したパキスタンの一部となったが、1971年に分離してバングラデシュを建国した。

 ガンジス川河口一帯の地方であるベンガル地方は肥沃な土地で生産力が高い。インド文明圏の一部であり、言語はインド=ヨーロッパ語系だがサンスクリットやペルシア語、ポルトガル語などの影響の見られるベンガル語が使用されている(現在のバングラデシュの公用語)。現在はインドの西ベンガル州からバングラデシュにかけてのインド有数の温暖湿潤で、農耕の盛んな豊かな地帯である。インド側のコルカタ(イギリス統治時代のカルカッタ)とバングラデシュの首都ダッカが大都会で、その周辺の農村地帯の人口も多い。商工業、機械工業、金融業も起こり、特にジュート生産は重要な産業となっている。
 8~12世紀には、インド最後の仏教保護王朝として知られるパーラ朝が栄えた。13世紀にイスラーム化し、ムガル帝国ではベンガル太守が統治にあたったが、アウランゼーブ帝死後は事実上独立した地方政権となった。

イギリスの進出

 18世紀にイギリスとフランスが進出し、両勢力に次第に蚕食されていった上で、ベンガル太守は1757年プラッシーの戦いでフランスと結んでイギリスと戦ったが敗れ、イギリスの勢力下に入った。イギリスは、ベンガル知事を置き、さらに1764年にベンガル太守をブクサールの戦いで破り、翌1765年にはイギリス東インド会社がベンガル地方のディーワーニー(徴税権)を獲得を獲得し、植民地化を開始した。
 1773年には東インド会社規制法(ノースの規制法)を制定してベンガル知事をベンガル総督に格上げして、インド統治の統轄機関とした。1793年よりベンガル州を中心とした地域ではザミンダーリー制によって土地税を徴収した、さらにその機構は1833年にインド総督に改組されるが、依然としてベンガル地方のコルカタ(カルカッタ)に置かれ、1911年にデリーがインド帝国の首都とされるまで、イギリスのインド統治の中心となった。 → イギリスのインド植民地支配(19世紀前半まで)

イギリスによるベンガル分割

 この地域はイスラーム教徒ヒンドゥー教徒がほぼ半分ずつ居住していたが、インドの民族運動を警戒したイギリスのインド総督カーゾン1905年ベンガル分割令を出して分割統治をはかったことから反英感情が強まり、インド独立運動が高揚したことは重要である。
 ベンガル分割令はイスラーム教徒の多い東ベンガルと、ヒンドゥー教徒の多い西ベンガルとに分割して統治し、宗教的対立を利用して反英運動を抑えようとしたものであったが、イギリスが想定した以上に反対運動が激しく起こったため、1911年には撤回した。 → イギリスのインド植民地支配(19世紀後半)

インドの分離独立

 しかし宗教的対立はその後も解くことができず、第二次世界大戦後の1947年、イスラーム教徒はパキスタン、ヒンドゥー教徒はインドとして分離独立することとなった。パキスタンは、東パキスタンと西パキスタンと分離して独立し、ベンガル地方のイスラーム教徒は東パキスタンに属することになった。しかし、東西のパキスタンは次第に分離の傾向を強め、1971年バングラデシュとして独立を宣言した。

ベンガル太守

ムガル帝国の地方政権。1757年プラッシーの戦いでイギリス東インド会社軍と戦い、敗れて実権を失う。

 もともとベンガルはムガル帝国の一州であったが、ムガル帝国の分解によって事実上独立し、州長官が太守(ナワーブ)と称してムガル皇帝から支配権を移譲されて地方政権となっていた。18世紀にイギリスとフランスのインド貿易の利権をめぐる争いでは、ベンガル太守はフランス総督のデュプレクスと結んだが、1757年プラッシーの戦いイギリス東インド会社軍に敗れ、その力を後退させた。
 翌1758年、イギリスはベンガル知事をおいて初代にクライヴを任命、ベンガル太守を傀儡化した。さらに1764年にベンガル太守はブクサールの戦いで再びイギリス東インド会社軍に敗れ、翌1765年にそれまでベンガル太守が持っていたディーワーニー(徴税権と行政権を含む権利)を東インド会社に対して認めることとなった。なお、ベンガル地方に対するイギリスの支配体制は、1773年にベンガル知事に代わってベンガル総督(ヘースティングス初代総督)が担当することとなる。 → インド

ベンガル知事

1758年にイギリスがインドのベンガル地方の統治のために置いた官職。初代はクライヴ。

 ベンガル地方は農業生産力が高く、18世紀以来イギリスとフランスがその利権をめぐって争っていたが、1757年のプラッシーの戦いベンガル太守と結んだフランス軍を破って優位に立ったイギリス東インド会社が、翌年クライヴを初代としてベンガル知事に任命した。さらに、1773年にイギリスはベンガル知事に代わりベンガル総督を置き、ヘースティングスを初代総督に任命した。

ベンガル総督

1773年、イギリスがインド統治のために置いた官職。東インド会社を管轄した。

 東インド会社は、プラッシーの戦い及びブクサールの戦いの勝利によって、1765年に東インド会社がムガル皇帝からベンガル・ビハール・オリッサ三地方のディーワーニー(徴税権)を得て、単なる商社ではなく徴税を行う実質的植民地統治機関となった。同時に、その租税収入はイギリス本国政府にとっても期待され、さらに投資家の関心も呼んで会社株は騰貴した。しかし、東インド会社の収益は、その軍事力の維持のための出費、株価高騰に対する配当金の支払い、それに会社役員と社員による横領などによって想うように上がらなかった。
 そのためイギリス本国政府は、東インド会社に対する介入を強める必要を感じ、1773年5月に「ノースの規制法」(これをインド統治法の一部と説明する場合もある)を制定して、東インド会社の権限に制限を加え、本国政府の任命するベンガル総督をカルカッタ(コルカタ)に設置し、インドの行政にあたらせることにし、東インド会社をその下に組み入れた。ベンガル総督はベンガル地方と共にマドラス管区、ボンベイ管区の行政も担当する、イギリスのインド統治の全体に関わった。 → 東インド会社の終焉

初代総督ヘースティングスとアヘン栽培開始

 初代のベンガル総督となったヘースティングスは1750年に18歳で東インド会社書記としてカルカッタに渡った。クライヴの後を受けて1772年にベンガル知事となり、73年のノース規制法で総督職が設けられると、74年その初代総督となった。当時、東インド会社の財政状況は悪化しており、その再建を託されたヘースティングスは、塩の取引を会社が独占したり、アヘンの生産奨励とその独占強化に努めた。穀物畑がとつぜんケシ畑に変化することが1776年にも見られた。1783年、資財を蓄え、成功者として本国に戻ったが、エドモンド=バークらからインド民衆を圧迫したとして非難され、糾弾された。<浅田実『東インド会社』1989 講談社現代新書 p.174-176>
 なお東インド会社はなお存続したが、1833年には商業活動を全面的に停止して行政機関のみとされるが、その際にベンガル総督はインド総督とされる。

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