印刷 | 通常画面に戻る |

ジョゼフ=チェンバレン

19世紀末~20世紀初頭のイギリスの政治家。1895年から、植民相として南アフリカ戦争など帝国主義政策を推進。

 イギリスの工業都市バーミンガムの製造業者として成功し、バーミンガム市長として名をあげ、中央政界に進出した。はじめ自由党急進派に属し、グラッドストン内閣で商務院総裁などを務めたが、1886年、アイルランド自治法案をめぐって、イングランドとアイルランドの連合維持を主張してグラッドストンと対立し、1886年に自由統一党を組織した。こうしてアイルランド問題をめぐって起こった自由党が分裂の当事者となった。

植民地相として帝国主義政策を推進

 1895~1902年、第3次ソールズベリ内閣(保守党と自由統一党の連立内閣。この時期の両党を統一党ともいう)の植民地相としてイギリスの帝国主義政策を推進し、特にケープ植民地のセシル=ローズらによるトランスヴァール共和国への侵略を支援した。セシル=ローズは間もなくその強引な手段が非難されて失脚したが、本国政府と植民地相ジョセフ=チェンバレンは、1899年の南アフリカ戦争を推し進め、1902年に勝利に終わらせた。植民地相として保護貿易主義に転じるようになり、翌年には閣僚を辞し、その後は高関税政策を主張するようになった。 → イギリス帝国主義政策
チェンバレンの二人の息子 ジョゼフ=チェンバレンの二人の息子も政治家として活躍している。長男のオースティン=チェンバレンは後に保守党党首となり、外相としてロカルノ体制の樹立にあたり、1925年のノーベル平和賞を受賞した。次男のネヴィル=チェンバレンも保守党党首、首相としてナチス=ドイツの台頭期の舵取りを行い、宥和政策を採ってナチスの台頭を許し、首相の座をチャーチルに譲った。
印 刷
印刷画面へ