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流刑地/流刑植民地

流刑は古くから各地で行われたが、特に18世紀からイギリスは獲得した植民地を流刑地とし、植民地経営の労働力とした。オーストラリアは1788年以来、イギリスの流刑植民地とされた。

 流刑(りゅうけい、るけい)は古くからある刑罰で、中国の律令制度では、笞(ムチ)・杖(ツエウチ)・徒(労働)・流・死といわれ、死刑に次ぐ重罰とされた。日本の律令制度でも採用され、奈良時代から平安時代に盛んに行われた。流刑は遠国に追放することで、その重さによって地域の遠近が定められていた。日本では都の京都を中心とした畿内から追放され、四国や九州、あるいは関東、東北か、さらに南西諸島、隠岐、佐渡、伊豆諸島などが遠流とされた。
 世界各国でも罪人を流刑にすることが多かったが、有名なのは帝政ロシア時代のシベリア流刑であろう。デカブリストら多くのものが反政府活動を行ったとしてシベリア送りになった。さらにソ連時代にも、スターリン体制の独裁のもと、粛清された反対派は死刑や国外追放になったばかりでなく、多くがシベリアに流刑となり、命を落とした。

イギリスの流刑植民地

 イギリスはアメリカ大陸の植民地経営を進め、1717年以来、流刑地としていたが、アメリカが独立した後は、流刑植民地として南アフリカを選んだ。しかし南アフリカは移送された囚人の多くが病死するなど適応が困難であったので、オーストラリアが新たな流刑植民地として選ばれた。
 こうして1787年5月13日、ポーツマス港から初代ニューサウスウェールズ総督フィリップら250名と、囚人750人が初めてオーストラリア大陸にむけて出港し、翌1788年1月26日にシドニーに上陸した。イギリスはその後1823年、「流刑植民地」という呼称をやめ、ニューサウスウェールズに一定の自治を認めたが、流刑は1840年まで続いた。<遠藤雅子『オーストラリア物語』平凡社新書 2000>

オーストラリアが流刑植民地となった理由

 オーストラリア大陸(当初はニューサウスウェールズ植民地)を流刑植民地にしようという最初のアイディアはクックの第1回航海に同行していた植物学者のハンクスが、1779年にイギリス議会でボタニー湾に植民地を設置すべきだという発言から始まる。当時、イギリスでは囚人の流刑地の不足の問題だった。
(引用)1717年から76年までは、流刑の判決を受けた窃盗犯は政府が船荷の請負業者に売り渡し、請負業者がアメリカに運んで南部植民地の地主へ労働力として売りさばいていたのであるが、1776年の独立戦争開始によって、このような囚人輸送法は不可能になった。そこでイギリス政府は、上流社会の人びとをなだめる一つの方策として、アメリカ植民地の反乱を鎮めるまで老朽船に囚人を収容するなどの一時的な措置をとった。しかし1783年にアメリカの独立宣言を認めてからは、流刑囚の新しい送り先を探す必要に迫られていたのである。<マニング・クラーク/竹下美保子訳『オーストラリアの歴史』1969 サイマル出版 p.12>
 オーストラリア大陸が流刑植民地とされる前には、アメリカ南部に囚人が送られ労働力とされていたことは、囚人だけではなく当時広く行われていた白人年季奉公人の一部だった。アメリカ新大陸では黒人奴隷制とともに南部綿花地帯を支える労働力だった。
 当時、イギリスのピット政権は、インド植民地の問題、国内の奴隷制反対運動、さらにヨーロッパの革命思想の流入などに頭を悩ませていた。そんな中、老朽船に収容された囚人が暴動を越すなどの報道があり、囚人問題も解決がせまられてた。1786年8月、内務大臣シドニー卿は、国王がボタニー湾に流刑植民地を設置することが望ましいと考えられた旨発表し、750人の囚人と食料品その他の必需品、開墾に必要な農耕機具をボタニー湾に輸送するための船団を準備するよう海軍に指示した。
 このプランはロンドンの知識人には馬鹿げた計画だ(経済的に割が合わない)と冷笑され、囚人たちには野蛮人の国で重労働を強いられるのではないかと恐れられた。しかし、この計画は刑務所の過密化対策として、もしかしたら新天地に文明をもたらすという貢献になるかもしれないという淡い期待が加わって、実行されることになった。ボタニー湾植民地の初代総督には退役海軍将校アーサー=フィリップ(48歳)が選ばれた。
 フィリップ提督に命じられた任務は、ボタニー湾に植民地を開くこと、自給自足を図るため囚人の労働力を分配し、土地を開墾すること、原住民と仲良く生活できるようにすること、住民に信仰と秩序を与えること、男囚にくらべて女囚が少ないので、近隣諸島から女を調達することなどであった。囚人には勤勉に働けば釈放して30エーカーの土地を与え、結婚したら妻に20エーカー、子どもに10エーカーを与える、とされていた。
 この囚人751人を含む最初の移民団は、1788年1月26日、この地に植民地を築くことを提唱した本国の内務大臣に因んでシドニーと名付けられ、流刑植民地の建設が開始される。以下、流刑植民地の囚人たちがどのような人びとだったのかについてはマニング・クラーク/竹下美保子訳『オーストラリアの歴史』に詳しく載せられている。
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マニング・クラーク
竹下美保子訳
『オーストラリアの歴史』
1969 サイマル出版