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クレマンソー

19世紀末~20世紀初め、フランス第三共和政時代の政治家。第一次世界大戦で首相を務め、パリ講和会議を主導し、ドイツに対する厳しい賠償などを課すヴェルサイユ体制をつくりあげた。

クレマンソー

Clemenceau 1841-1929

 クレマンソー Clemenceau は、フランスの第三共和政時代を代表する政治家で、第一次世界大戦の時期に挙国一致内閣を率い、また戦後のパリ講和会議ではフランスの代表として対ドイツ強硬論で会議をリードした。
 パリ市会議員から1876年に下院議員となり、1889年のブーランジェ事件では共和政の擁護のため先頭に立って軍部の陰謀をあばき、ブーランジェの野心をくじいた。1892年には疑獄事件のパナマ事件に巻き込まれて、一時議会から身を退いた。ジャーナリストに転じたクレマンソーは、1894年にドレフュス事件では軍部や保守派を向こうに回してドレフュスを弁護し、共和政や人権擁護の闘士とみられた。

Episode 「虎」と恐れられた言論人

 クレマンソーは1893年、共和政と私有財産制の擁護を掲げる政党として急進社会党を立ち上げた。その主張は左派に近く、累進課税や国家専売などを掲げ、小ブルジョワの立場に立っており、社会主義とは一線を画していた。急進社会党という名称から誤解されるが、急進的でも、社会主義政党でもなく、国家権力に対して小市民の利害を守るという姿勢であった。しかし議会では激しく論争を挑み、その雄弁は、左右両派からも「虎」とあだ名されて恐れられた。
 しかし一方では普仏戦争でのアルザス・ロレーヌの割譲を忘れないことでは徹底した愛国派でもあった。

第一次世界大戦

 1902年、上院議員となり、内相を経て1906年~9年には首相をつとめた。この頃になると炭坑ストを弾圧するなど社会秩序の重視に転じ、ドイツに備え得た軍備拡張も主張するようになった。  第一次世界大戦では、大統領のポワンカレによって1917年11月に首相に指名され、ドイツ軍に押されて苦境に立つフランスの戦争を指導することとなった。

パリ講和会議での対ドイツ強硬論

 パリ講和会議では彼はフランスの永遠の安全のためという理念から、ドイツを徹底して抑えることを主張し、国際的な妥協を説くウィルソンを牽制しながら有利に進め、ヴェルサイユ条約で賠償金など大幅な利得をフランスにもたらした。また、その強い要求によって、フランスに接したドイツ領のラインラントは非武装とされた。しかしその強硬姿勢は、ドイツに抜きがたい反ヴェルサイユ体制の怨念を植え付けることとなった。

Episode クレマンソーの警句

 ジョルジュ=クレマンソーは、第一次大戦でフランスを勝利に導いた首相だが、40代半ばの頃パリで新聞社の社長をしていた。彼の中学の同級生だったブーランジェ将軍は、若くして陸軍大臣の椅子を射とめ、対ドイツ強硬論者として国民の間に絶大な人気があった。1887年4月20日、国境付近で勤務中の巡査が、ドイツ側に逮捕されるという事件が突発した。絶好の機会到来と、と見てとったブーランジェ将軍は、ただちにドイツ進攻を決意し、軍隊を動員しようとした。将軍と会ったクレマンソーは、開戦を思いとどまるよういさめ、自ら戦争反対の論陣を張るつもりで新聞社へもどってくる。社内では幹部たちが、開戦論と反対論に分かれて激論を戦わせていた。その頭上へクレマンソーは、歴史に残る有名な警句を吐いて、たちまち社論を統一させた。「きみたち、戦争のように大切なことを、軍人に任せておけるかね」 <上前淳一郎『読むくすり』1982 文春文庫 p.170>
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