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ゲーリング

一時期はヒトラーの後継者と指名されたナチス=ドイツ指導者の一人。空軍司令官、四カ年計画の総監、国家元帥などに就任したが大戦末期には力を失い、戦後逮捕された後、ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けたが、自殺した。

 ヘルマン=W=ゲーリング(1893~1946)はヒトラーの信任が篤く、ナチス=ドイツの典型的な指導者の一人。第一次世界大戦に空軍将校として参加し活躍、勲章を授けられた。しかし敗戦によってその栄誉は失われて、輸送機のパイロットとして生計を立てていた。1921年にミュンヘンでヒトラーの演説に遭遇し、意気投合して翌年にナチ党に加わり、野性味のある好人物という外観からヒトラーの信任を得て、突撃隊(SA)を組織し党内の地位を高めた。ミュンヘン一揆に加わったが失敗して亡命。このとき痛めた腰の治療のためモルヒネ中毒になったという。帰国後、1928年の選挙にナチ党から立候補して当選、国会議員となる。1932年には国会議長、33年にヒトラー内閣が成立すると入閣した。その年の国会議事堂放火事件は共産党員のしわざとされたが、実際にはゲーリングが画策したという疑いが濃い。ゲーリングは秘密国家警察(ゲシュタポ)の創設にも関わった。
 1934年、ヒトラーが突撃隊(SA)の実権を握っていたエルンスト=レームを路線の違いから排除を図った突撃隊(SA)の粛清では、ゲーリングはベルリンでSA隊員150名の殺害を指揮し、さらに混乱に乗じて前首相シュライヒャーや旧ナチ党のシュトラッサーらを殺害した。

Episode “バターか大砲か!”

 ヒトラーが再軍備を進めていた1936年、ゲーリングは国民を前に次のような演説をした。
わたしははっきり話さねばならぬ。なかには耳の遠い連中もいる。彼らは耳もとで発砲でもされなければ話に耳を傾けようとしない。いいか同志諸君、われわれにはバターがない。しかしわたしは質問したい――諸君はバターと大砲のいずれを欲するか? ラードを輸入するか、それとも金属部品を輸入するか? いいか諸君――備えあれば憂いなしという。バターはわれわれを太らせるだけだ!
 聴衆はどっと笑い出した。確かにゲーリングの言う通りだった。彼らはバターではなく大砲を欲していた! しかし一見人のよさそうなこの太っちょの道化師面のかげには、人殺しの心が隠されていた。<スナイダー/永井淳訳『アドルフ・ヒトラー』1970 角川文庫 p.90>

空軍総司令官から国家元帥へ

 1935年にヒトラーが再軍備に踏み切り、新たにドイツ空軍を創設すると、その総司令官に任命され、さらに同年10月、ナチス=ドイツの軍備優先の経済体制を確立するための四カ年計画の総監に指名された。1936年のスペイン戦争では、ドイツ空軍によるゲルニカ爆撃を実行した。同年、突撃隊隊長レームを暗殺した粛清事件でヒトラーを助けて行動し、同時にヒトラー周辺の競争相手を排除することに成功し、第一の側近となった。
ヒトラーの後継者に指名される 第二次世界大戦が始まると、当初は空軍が大きな戦果を上げゲーリングの名声も高まり、39年、ヒトラーの後継者に指名され、40年に国家元帥となった。ドイツ軍がヨーロッパに占領地を広げると、ゲーリングは美術品や文化財の略奪を命令するなど、次第にその行動は正常な国家指導者の域を出るようになっていった。
 しかし、イギリス空爆が失敗した辺りからヒトラーと間に隙間が生じるようになった。ヒトラーの側近はゲッベルスなどが占めるようになり、ゲーリングは次第に遠ざけられるようになった。さらにヒトラーへの反逆が疑われ、45年4月にはすべての官職を剥奪されナチ党からも除名された。
 ベルリンが陥落するとオーストリアに逃亡したがアメリカ軍に捕らえられ、ニュルンベルク国際軍事裁判に被告として出廷し、死刑判決を受けたが、処刑の直前に服毒自殺した。
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スナイダー/永井淳訳
『アドルフ・ヒトラー』
1970 角川文庫