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東京大空襲

1945年3月10日、アメリカ軍による東京への無差別空爆が行われ、死者10万以上という被害があった。その前後にも東京、その他日本各地への空襲があり、8月には広島・長崎への原爆投下となって、8月15日の終戦となった。

 太平洋戦争の末期、1945年3月10日未明、マリアナ諸島の基地から飛び立ったアメリカ空軍のB29爆撃機344機の大編隊が東京を空襲。都心から東側にかけて、焼夷弾による絨毯爆撃が行われた。わずか数時間の間に、死者10万人以上、罹災者100万人という大きな被害を与えた。この東京大空襲を皮切りに、アメリカ空軍による日本の主要都市への爆撃は、川崎・横浜・名古屋・大阪・尼崎・神戸(京都は除外された)の7都市に対して行われ、さらに地方都市に拡大された。これらの都市空襲は、軍事施設ではない一般の居住区に対する無差別爆撃によって戦意の喪失をねらった戦略爆撃(広島・長崎への原爆投下もその延長上にあった)であり、人道的に許されない国際法違反であった。日本軍による錦州爆撃(31年10月)、重慶爆撃(38年~41年)、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃(37年4月)、アメリカ軍によるドレスデン爆撃(45年2月)などが都市に対する無差別爆撃として実行された。

Episode 日本政府から叙勲された東京大空襲の司令官

 アメリカ空軍の東京大空襲で無差別爆撃を命じた指揮官はカーティス=ルメイ将軍であったが、かれは戦後も昇進し空軍の最高司令官になる。後に、日本政府から勲章を授与されている。その理由は、日本の航空自衛隊創設に大きな功績があったからだという。

Episode マクナマラと『フォッグ・オブ・ウォー』

 カーティス=ルメイ将軍の下で、東京大空襲の実行プランを作成したのは若き中佐ロバート=マクナマラであった。マクナマラはハーバード大学准教授で経営管理の専門家として知られていたが、その才能を陸軍に見込まれて急遽第20航空団に中佐として迎えられたのだった。彼は戦後、ケネディ政権下で国防長官に抜擢され、ベトナム戦争に関わることになる。しかし退任後、マクナマラは自らが主導した東京大空襲に対する自責の念を持つようになった。そのマクナマラに対するインタビューをドキュメンタリー映画にしたのが、2004年のエロール・モリス監督による『フォッグ・オブ・ウォー(戦争の霧)』だ。この作品は、「戦争に勝ったわれわれもまた、戦争犯罪者だったのだ」と深く肩を落とすマクナマラを映し出し、衝撃を与えた。そして、第76回のアカデミー賞の最優秀長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。
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エロール・モリス
『フォッグ・オブ・ウォー』
マクナマラ元米国防長官
の告白 2004