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イギリスの社会保障制度

イギリスので第一次世界大戦前から具体化が始まり、第二次世界大戦後にアトリー労働党内閣で推進され、その後も継承されている。

 イギリスの社会保障制度は1911年のアスキス自由党政権の国民保険法に始まる。第二次世界大戦中のイギリスで、戦後社会の復興の柱として社会保障制度の充実を掲げ、ベヴァリッジを委員長とする委員会を設置、1942年に「ベヴァリッジ報告」が出され、44年には国民保険省が新設され、家族手当法が制定された。
 1945年のイギリス最初の労働党単独内閣であるアトリー内閣によってベヴァリッジ・プランに基づく体系的な社会保障制度が実施され、医療費の無料化、雇用保険、救貧制度、公営住宅の建設などの「福祉国家」建設が本格化した。これによってイギリス国民は「ゆりかごから墓場まで」の最低生活が保障されることとなった。
 イギリスの社会保障制度は先進国のモデルとされ、その後の保守党政権でも継承されたが、1970年代後半になると福祉政策が財政を圧迫して経済発展が阻害され、また産業国有化政策による国民の労働意欲の低下などの問題が指摘されるようになり、「イギリス病」とさえ言われるようになった。そこで、1980年代のサッチャー保守党政権は、民営化と共に福祉国家の縮小を掲げ、「小さな政府」への方向転換を図った。
 サッチャー政権のもとで経済は活性化したが、一方で貧富の格差の拡大、若年層の失業の増加、犯罪の増加など社会の荒廃という弊害をもたらした。1997年からのブレア労働党政権は、福祉国家を掲げつつもそのモデルチェンジをはかり、従来の財政支出によって完全雇用を目指すというケインズ的経済政策を放棄し、政策経済活力を維持しつつ、格差の縮小、貧困の解消という社会正義に向けた政策を実現をかかげている。

ベヴァリッジ報告

 第二次世界大戦中の1941年、保守党のチャーチル内閣は、戦後の社会保障のあり方を提案してもらうために委員会を発足させた。その委員長となったのが、かつての失業保険政策の立案にあたった経済学者ベヴァリッジであった。ベヴァリッジはかつては意見の対立したウェッブ夫妻らの思想やケインズらの理論を取り入れ、報告書をまとめた。それが戦後のイギリス社会保障政策を決定づけ、世界的にも大きな影響を与えたベヴァリッジ報告書である。その要点は、
  • ウェッブ夫妻に始まりフェビアン協会社会主義の基本思想である「ナショナル=ミニマム」を根幹とし、国民すべてに最低限の生活保障を実行することを国家の義務であるとした。
  • 失業保険、年金などの保険制度は定額保険料・定額給付が原則とした(1911年の国民保険法の思想を継承した。しかし50~60年代に修正される)。それを補完し高所得者向けには任意加入の高負担・高給付の保険を設ける二段階を提唱した。
  • 保険料を払えない人、あるいは働けない人に税金を財源とした国民扶助あるいは社会扶助として所得保障を設け、救貧法に代わるものとする。
  • 15歳ないし16歳以下の児童に対して児童手当を支給する。家族が多いために貧窮することを防ぐ狙いがあった。2010年、日本で導入された「子ども手当」の手本である。
  • 医療に冠しては保険料の徴収ではなく、税金を財源にした一定額の医療給付制度を設けた。現在のNHS(国民保健サービス)制度の起源である。これは戦後のアトリー労働党内閣で医療事業が国有化されたことによって、医療が税金で運用されることに継承された。民営化を進めたサッチャー改革でも医療だけは税を財源とすることには手をつけなかった。
 このうち、年金の定額保険料・定額給付は、その額が低すぎ、生活困窮者が続出、そのため税収による扶助の支払い額が増加し財政を圧迫した。そのため均一拠出・均一給付の原則をやめ、60年代から70年代にかけて比例拠出・比例給付の原則に制度変更を続けた。<橘木俊詔『安心の社会保障改革-福祉思想史と経済学で考える』2010 東洋経済新報社 p.48-51>

サッチャーによる社会保障削減

 「ゆりかごから墓場まで」を謳歌した福祉国家イギリスであったが、「経済が弱くなると、福祉・社会保障が攻撃の対象となることは歴史の常」であり、60年代末期から70年代のイギリス経済は不振を極め、1980年代にその回復策の一つとしてサッチャー(及び後継のメージャー)内閣によって社会保障が削減が行われた。そのポイントは次のようなものであった。。
  • 年金の民営化政策 公的年金の民営化論が台頭し、サッチャーは二階部分の所得比例部分の民営化をねらった。政権の後期になって企業年金を二階部分に代替する案を導入し、民営化をある程度成功させた。
  • 最低賃金法の撤廃 最低賃金法があると雇用が減って失業が増えるというマイナス効果を重視して廃止に踏み切り、後継のメージャー内閣で実施された。
  • NHS(国民保健サービス)の部分的民営化 医療サービスの自由と効率化を目指したが、財源を税方式から保険料方式に変更することは国民の反対が強く、完全民営化はいまだに出来ていない。
 以上のサッチャー流改革はかなりの程度のイギリス経済の立て直しに成功したが、所得配分の不公平化など、社会保障削減による国民の不安も高まり、ブレア労働党政権に政権交代した。ブレア内閣は経済効率と公平性の両立を目指す「第三の道」をとり、例えば最低賃金制度を復活するなど、規制緩和と雇用政策をうまく組み合わせるなど社会保障制度の立て直しを図った。<橘木 同上 p.52-55>
2024年共通テストでの出題 2024年の大学入試共通テストの世界史Bで、サッチャーの社会保障政策についての問題が出された。そこでは年金制度の改革(改革というより「削減」という内容だが)についてのサッチャーの記者会見での発言が引用されている。そこではサッチャーの本音が語られている。また日本では2000年代に入ってから、少子高齢化対策という名目で年金削減が段階的に進んでおり、政府はさかんに「公助より自助」を強調するようになったが、そのルーツはサッチャーによる年金削減政策であったこと、しかも30年も遅れた政策コピーであることが分かる。 → サッチャーの項を参照。