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ブレア

1997~2007年のイギリス首相(労働党)。サッチャリズムからの路線を修正し、「第三の道」を目指した。1998年には北アイルランド紛争を解決する和解案に応じた。しかし外交ではアメリカ追随が目立ち、イラク戦争に参加、国民的支持を失った。

トニー=ブレア
Tonny Blair
 1980年代のサッチャーと、90年代前半のメージャーと続いたイギリス保守党政権は、いわゆるサッチャリズムにより民営化と福祉削減という「小さな政府」化を徹底して推し進めた。その結果、経済の活性化という効果をもたらし、「イギリス病」の克服には成功したが、一方で貧富の格差の拡大、若年層の失業の増加、犯罪の増加など社会の荒廃という弊害をもたらした。そのような中で1997年5月に総選挙が行われ、保守党の長期政権に飽きていた国民は政権交替を期待したため、18年ぶりに労働党が圧勝し、党首ブレアが内閣を組織することとなった。ブレアはそのとき43歳、イギリス史上もっとも若い首相となった。

第三の道

 労働党が1979年から18年間、政権を失ったのは、「大きな政府」型の伝統的な福祉国家路線にたいする国民の支持がなくなったからであった。ブレアは労働党史上初めて、福祉国家のモデルチェンジを図り、政府支出によって経済を刺激し、これによって完全雇用を達成するというケインズ主義的な経済政策を否定した。しかし、「大きな政府」か「小さな政府」かという二分法を乗り越え、機会の平等を実質的に確保するところに政府の新たな役割を見出した。そのビジョンは「社会的包摂」(social inclusion)と呼ばれた。労働党の経済政策は「完全雇用」(full employment)ではなく、「十分な雇用可能性」(full employability)を目指すものに代わったとも言える。これは、かつての労働党のケインズ主義とも、サッチャーの新自由主義とも異なる、「第三の道」を目指すとされた。

北アイルランド紛争の解決

 ブレア労働政権は、北アイルランド紛争の解決、スコットランドとウェールズの自治実現などの内政での成功を収めた。1998年にはアイルランド共和国軍(IRA)との和平協定を締結、2003年にはIRAの武装解除宣言まで漕ぎ着けた。70~80年代、多くの犠牲を出した北アイルランド紛争が解決したことはブレア政権の大きな業績と言える。
 またブレア政権は、1997年、スコットランドウェールズでも自治要求に高まりに応え、それぞれ住民投票を実施し、住民の賛成を受けて、1999年には連合王国議会とは別にスコットランド議会、ウェールズ議会が設けられた。

EU・アメリカとの関係

 外交ではサッチャーの対米中心、対欧州での孤立主義を改めて、ヨーロッパ統合には積極的に関与するようになったが、通貨統合への参加はいまだ実現させていない。
 しかし、2003年のアメリカ・ブッシュ政権のイラク戦争では、イラクが大量破壊兵器を所持しているとして、最初からブッシュを支持しアメリカと共に武力行使を乗りだした。その後も、2005年の総選挙で勝利し、サッチャーに続く長期政権となったが、次第にその大統領型の政治に対して批判が強まり、国民的な支持を失っていった。2007年には、労働党党首の座を、ブレア政権の経済政策を担当し、堅実な成長を実現して人気の高かったブラウンに譲り、退陣した。<山口二郎『ブレア時代のイギリス』2005.11 岩波新書 などによる>

ブレアの挫折

 ブレア首相は2001年の9・11同時多発テロに対する報復としてブッシュ政権が実行したアフガニスタン攻撃やイラク戦争に積極的に参加し、アメリカの忠実な同志として行動した。このとき、アメリカに同調しなかったドイツ・フランスと対照的な動きとなった。国内には激しい反戦集会が開かれたが、ブレアはイラクが大量兵器を所有していることは疑いがないと主張し、人道的な立場を強調して参戦を強行した。その際は、外国との開戦決定は首相の権限に属するとして議会に相談せず、女王への要請だけで決定した。
 イラク戦争自体は2ヶ月ほどで終結したが、その後もイギリス軍はイラクやアフガニスタンにとどまり続けた。その間、イラク戦争後に議会が独自の調査委員会を設けて精査した結果、イラクには大量破壊兵器などなく、ブレア政権首脳部もそれを知っていたとの疑惑が生じた。そのあたりからブレア人気に陰りが生じ始め、2007年の辞任につながった。<君塚直隆『物語イギリスの歴史下』2015 中公新書 p.219-220>