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イエメン

アラビア半島南西端にあたり、香料貿易などが盛んな地域。南部は19世紀初めイギリス保護領となったが、67年にイエメン人民共和国として独立し、後に社会主義政権が成立した。北部には1918年にイエメン王国が成立。62年に王政が倒れイエメン=アラブ共和国となった。1990年に南北が合同し、イエメン共和国となったが、内戦状態が続いた。

シヴァの女王の国

 アラビア半島の南西端にあり、紅海とインド洋を結ぶ位置を抑える交通の要衝であったので、早くから香料貿易などで栄えた。旧約聖書にはヘブライ王国のソロモン王に黄金や香料、宝石を贈ったというシヴァの女王はこの辺りを支配したと伝えられている。この王国はシヴァ王国(サヴァ、サバ、サバァなどとも表記する)といわれ、南アラビアに現れた最も古い国であり、その繁栄の記憶が旧約聖書やコーランに伝えられたものと考えられている。詳しいことは判っていないが、おそらく紀元前後に砂漠のベドウィンの侵入によって衰えたようである。

アデンの繁栄

 また紀元1世紀にはこの地の中心の港市であるアデンはローマとインドを結ぶインド洋交易圏での季節風貿易の中継地として繁栄していたことが『エリュトゥラー海案内記』に現れている。それ以来、この地はギリシア人やローマ人は「幸福なアラビア」と呼んだ。19世紀以降の発掘でシヴァ王国(サバ王国とも表記)の跡と思われる遺跡が発掘されている。6世紀にササン朝ペルシアのホスロー1世の支配を受けた後、7世紀にはイスラーム化した。

イエメン王国の独立

 16世紀にはオスマン帝国の支配を受けるようになったが、インド洋に面したアデンが1839年にはイギリスに占領され、南イエメンはイギリスの保護国となった。
 一方、北イエメンではシーア派のザイド派が台頭し、第一次世界大戦でオスマン帝国が弱体化した際、1918年に独立してイエメン王国となった。第二次世界大戦末の1945年3月に結成されたアラブ連盟に加盟した。

北と南

 その後王政が続いたが、1962年9月にサッラール大佐によるクーデターが起こり、国王は追放され共和政のイエメン=アラブ共和国(北イエメンとも言う)となった。一方の南イエメンは依然としてイギリスの保護国として続いていたが、1967年に独立してイエメン人民共和国(南イエメンともいう)となった。こちらは1970年にソ連に近い共産政権が成立し、イエメン人民民主共和国と改称した。
 1990年に北のイエメン王国の後身であるイエメン=アラブ共和国と、南のイギリス保護国であったイエメン人民民主共和国が合体し、イエメン共和国が成立した。

イエメン共和国

1990年、南北イエメンが合体し統一を回復した。しかし、1994年に再び内戦になる。2011年、アラブの春によって民主化が始まったが、部族対立、宗教対立から2015年以来再び内乱状態となっている。

 北イエメン(紅海に面した側)を支配していたイエメン王国は1962年に共和派がクーデターを起こして王政が廃止され、イエメン=アラブ共和国となった。しかし、サウジアラビア王国の支援を受けた王政派と、アラブ連合共和国の支援を受けた共和国軍による内戦が続いた。1967年には共和派政権がクーデターで倒されるなど政情不安が続いた。その南のイギリスの保護下にあった南イエメン(アラビア海に面した側)が同年1967年に独立してイエメン人民共和国が成立、さらにソ連よりの共産政権によって1970年にイエメン人民民主共和国と改称した。
 1990年、南北の合同が成立して誕生したイエメン共和国は、人口2350万、首都はサヌア(サナア)。言語はアラビア語で宗教はイスラーム教スンナ派が多数。シーア派が少数存在する。位置的にはアラビア半島の南端、紅海の出口という位置にあり、古代~元代まで重要なルートを押さえているが、最近は政情不安が続いている。

国家合同に踏み切る

イエメン地図

イエメン Yahoo Mapによる

 この南イエメンはアラブ世界唯一の社会主義国家であったが、世界的な東側の社会主義陣営の後退のなか、経済が破綻し停滞が深刻になっていった。その結果、南北イエメンの合同の動きが高まり、1990年に両国が合体してイエメン共和国が成立した。これは、1839年のイギリスの南イエメン占領以来、分断されていたイエメンが、ようやく統一を回復したことを意味する画期的なできごとであった。
 しかし、南北は同一民族ではあるがそれまでの部族的な対立、政治形態の違い、宗派の違いという問題を抱えていたため、統一を維持するのは困難だった。はやくも1994年には南イエメンが再独立をとなえて内戦が勃発し、同年中に北イエメンの勝利となって停戦が成立した。イエメン共和国は、サウジアラビア王国アラブ首長国連邦などのアラビア半島諸国が王政や首長制であるのに対して、半島内の唯一の共和国として、民主化を進めているが困難な状況が続いている。

アラブの春

 イエメン共和国の大統領サレハは、北イエメン(イエメン=アラブ共和国)時代から30年以上その地位にあって困難な国家合同を主導してきたが、その強権的な支配に対する南イエメンの民衆の不満が高まっていた。2011年、アラブ世界に突如発生したアラブの春といわれた民主化運動は、ここイエメンにも及んできた。1月、チュニジアでジャスミン革命が始まると、わずか4日後の1月18日、首都サヌアの大学生たちが反政府集会を開き、市民も同調、南イエメンのアデンにも反政府デモが広がった。その後も治安部隊が発砲したり、政府支持派が武装して市民を襲撃するなど、内乱状態となった(イエメン騒乱)。また、アルカーイダ系のテロ組織も動き出したため、政府側は反テロを掲げてアメリカの支援を受けようとした。
 情勢は混沌としたが、運動は次第に暴力を否定する大衆運動が主流となっていき、国民の大統領退陣の要求が強まっていった。サレハは権力の維持を図ったが最終的には12月に退陣を表明、副大統領ハディが暫定的にその地位につき、翌年、正式な大統領選挙で選出された。サレハは病気治療を理由にアメリカに渡った。この間、非暴力の民主化運動を組織し、デモや座り込みの先頭に立った32歳の女性ジャーナリストのタワックル=カルマンが2011年のノーベル平和賞を受賞した。

春の後の動き

 アラブの春はチュニジア、エジプト、イエメンで強権的な大統領を退陣させることに成功したが、その後の民主化の歩みはいずれも順調には進んでいない。民主化によって宗教的少数派が発言力を強め、また独裁政治に元で抑えられていた部族が自由な活動が可能になったため部族間対立が再燃してしまい、治安の悪化が軍隊の発言力を強めてしまうと言う傾向が出てきた。
 イエメンに対してもイスラーム国(スンナ派系過激組織)などの温床になっているという欧米諸国の懸念する声がある。そのなかで、2015年には北イエメンの北部を拠点としたシーア派武装組織フーシ派(日本外務省の表記はホーシー派)がイエメンからの分離独立を主張して武装蜂起、クーデタによって大統領を辞任に追いこんだ。フーシ派はイエメン国内ではまったくの少数派であるが、その背後にはイランがいるとして、スンニ派アラブ諸国は神経を尖らし、同年3月、アラブの盟主を自認するサウジアラビアは他のアラブ諸国軍と共にフーシ派の拠点を空爆した。しかし、フーシ派はイランの支援を受けているとみられ、勢力を強め、首都サヌアを制圧、さらに南部のアデンにも攻勢をかけ、イエメンは内戦状態となった。

NewS イエメンの混迷深まる

 2019年8月現在も、イエメン情勢は安定せず、依然として内戦が続いている。最新情報では、ハディ政権に対して、南部イエメンの分離独立を主張する「南部暫定評議会」(STC)が武装蜂起を行い、アデンを制圧したという。南部暫定評議会は反フーシ派なので、これでイエメンは政権派とフーシ派、南部分離派の三つ巴の内戦状態になった。この内戦の背景にはサウジアラビアを中心とするスンナ派のアラブ諸国と、同じイスラーム教でありながら鋭く対立するシーア派のイランという図式が見られる。これもアラブの春が開けてしまった新たな対立のひとつであろうか。(2019/8/11記)
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