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チベット問題/チベット独立運動

1980年代、中国が改革開放路線を採り、チベットへの経済進出が強まった結果、貧富の差が拡大、チベット人の反発が強まった。1989年、2008年には大規模な独立を求める民衆の蜂起が起こった。政治・宗教上の指導者ダライ=ラマ14世は亡命が続く中、国際的な支援を求めて活動している。

 チベットは、1750年に清の藩部となってから中国の支配を受けたが、清朝の崩壊を受けて1913年には事実上の独立を果たした。しかし中国で中華人民共和国が成立すると、1951年に中国政府軍が進駐し、中国支配が復活した。現在はチベット人は中国を構成する多民族の一つとされ、1965年からはチベット(西蔵)自治区として自治が認められている。チベット人は自治区以外の青海省、四川省、甘粛省、雲南省などにも広く分布している。 → 中国の少数民族

1959年 チベットの反乱

 1959年3月12日、中国からの完全な自治を求めるチベットの反乱が起き、宗教指導者ダライ=ラマ14世はインドに亡命し、亡命政府を樹立した。中国軍は3月までにチベットの反乱を鎮定し、ダライ=ラマはチベットに戻ることができなくなり、現在も亡命を続けている。これを契機に中国とインドの関係が悪化し、1962年には中印国境紛争が勃発し、中国軍は戦闘を優位に進め、カシミール地方の実効支配を続けているが、なおも問題は継続している。

1965年 チベットの自治と文化大革命

 中国はチベットの分離独立運動を抑えるために、1965年にチベットを自治区として大幅な自治を認めた。これは「民族区域自治」の原則に立ったもので、モンゴル人の内モンゴル自治区、ウイグル人の新疆ウイグル自治区、回族の寧夏回族自治区、チワン人の広西チワン族自治区とならぶ、一自治区である。自治区はそれぞれ自治行政政府を持ち、省と同等の自治権を有するが、あくまで中国国家の枠内での自治体に過ぎない。国家としての独立を認められなかったチベット人の独立を求める運動は国内では厳しく取り締まられ、国外のダライ=ラマが国際世論に訴える形となっていった。1960~70年代、中国で文化大革命が展開されると、その伝統文化否定の運動はチベットにも及び、多くの文化遺産が破壊された。

1989年 ラサ暴動

 中華人民共和国の文化大革命が収束し、1980年代から鄧小平政権政権が改革・開放政策に転換してからチベットでも経済自由化を進めたが、かえって中国人の経済的進出が活発となり、現地のチベット人は経済的に不利な立場におかれて不満が高まっていった。1989年にはラサで暴動が起こり、戒厳令が出された。その時自治区の党書記であったのは胡錦涛であった。本国の中国ではその年、天安門事件(第2次)が起こったが、鄧小平政権は本土においても、チベットにおいても、政治的自由や言論の自由などの人権を認めず、弾圧した。

チベット問題の深刻化

 亡命中のダライ=ラマ14世は世界各国で中国のチベットに対する弾圧を批判し、自治拡大(表面だって独立を訴えることはしなかった)を訴えた。それに対して1990年、ノーベル平和賞が与えられると、中国当局は強く反発し、様々な規制を強めた。
 1995年にはチベットで転生が承認されたパンチェン=ラマを中国当局が家族ごと拉致し、別に中国当局の選んだ同年齢・同村出身の少年に置き換えた。この新パンチェン=ラマは現在も中国当局に保護され、ダライ=ラマに代わるチベットの象徴として扱われている。
 いずれにせよ、ダライ=ラマ14世の高齢化に伴い、そのダライ=ラマの後継者選定の問題、制度そのものの存続の問題が今後の争点となっていく。

2008年 北京オリンピックの年のチベット暴動

 2008年には北京オリンピックを控え、世界の注目が中国に集まったが、その中で3月に再びチベットで大きな暴動が起こり、チベット仏教の僧侶がその先頭に立った。彼らは、オリンピックの聖火リレーを妨害するなどの手段で世界にチベットの独立を訴えた。この間、亡命先のダライ=ラマ14世は、たびたび中国を非難し、自分たちの要求は独立ではなく自治の拡充であると主張した。現地の反中国国暴動は治安当局によって鎮圧されたが、国際世論はチベットに同情的で、問題は続いている。
 この背景には、2006年に北京・ラサを結ぶ高速鉄道が開通し、チベットに入植する中国人が急増、チベット人の土地や資源、労働機会を漢民族に奪われたことによって、チベット人の反発が一段と強まったことが挙げられる。

ラサの変貌

 中国の改革開放路線がチベットに及んだことによって、どのような変化が起こったか、次のような観察がある。
(引用)こんにち、空漠の地に立つポタラ宮などを想像してラサに到着する者は、目を疑うだろう。その昔、紫禁城と見なされてきたラサは、急造成され、何の魅力もないフランスの片田舎の町と見まがうばかりである。安普請の近代化の金ぴかの飾りの下に、チベット精神がいまだ感じ取られるとはいえ、チベットの心がどうにか生きながらえている。昔ながらの地区は、市中心部のジョカン寺周辺に残されるのみであり、それもしだいに面積が狭められつつある。
 1980年代の前半、中国軍の兵士や治安関係者を除き、ラサにはおよそ5万人が住んでおり、その大半はチベット人であった。2007年、季節労働者や軍・治安関係者を除く、ラサの公式人口は40万人ほどである。観光客数は年間400万人強に上り、その95%を中国人が占める。物乞いの姿が1990年代のなかばから見かけられるようになり、カラオケ店やゲームセンターが現れ、美容院やマッサージサロンの看板を掲げたラブホテルも出現した。<ルヴァンソン/井川浩訳『チベット ー危機に瀕する民族の歴史と争点』2009 白水社 文庫クセジュ p.78>

環境と伝統の破壊の危機

 チベット問題は、中国によるチベット独立に対する抑圧にとどまらず、チベットの環境と伝統が破壊されるようとしている事にも及んでいる。
環境の破壊 チベットは、専門家は北極と南極に並ぶ「第三の極」と指摘するように、寒冷な高地で多くの氷河があり、アジアの大河の多くはそこを源流としている。チベットを「固有の国土」の一部であると主張する中国政府は、現在、地下資源の開発とともに、ダムの建設・大規模森林伐採を計画し、開発の推進のため、鉄道、道路の建設を進めている。専門家は、それらが氷河源の自然を破壊し、渇水か洪水かの極端な災害を引き起こすことを警告している。それは黄河や長江だけでなく、メコン川やチャオプラヤ川、ブラマプトラ川、ガンジス川、インダス川にも影響を与えると考えられている。2008年の北京のオリンピックの時、中国当局は聖火リレーのチベット通過を強行した。そのため自動車専用道路を建設しようとしたことも、チベット人の反感を呼んだのだった。
伝統の破壊 中国のチベット自治区当局者は、学校教育をつうじてのチベットの中国化を進めている。かつてはその尊重が謳われていたチベット語の使用は、学校教育の場で徐々に排除され、現在では大部分で中国語が使用されるようになっている。チベット人は土地や文化への帰属意識が強く、伝統衣装であるチュバ、カター(白いマフラー)、ツォンパ(穀物)やバター茶などの食べ物、タンカ(布に描いた宗教画)などの日常生活は、共有してきた集団記憶である建国神話とともに、強固な宗教心と結びついている。そのチベット人のアイデンティティがいま危機にさらされていると言っていい。

中国の論理

 チベットに対する支配を、中国共産党はどのように正当化しているのだろうか。1950年~60年代までは、チベットに対する帝国主義の侵略を阻止するために、解放軍を進駐させる必要がある、というものであった。同時に遅れた農奴制社会であるチベットに対し、封建的特権階級である地主と僧侶の支配を排除し、ダライ=ラマによる政教一致体制を否定して、近代的な民主主義化を前提として社会主義社会とするためであるというのが大義名分とされた。その上で、他のモンゴル人やウイグル人と同じように、一定の民族性を尊重し、「自治区」を設立するというものであった。1959年のチベットの反乱は、「自治区導入によって、従来の政治的特権を否定されることを恐れたダライ=ラマなどの旧上層部が起こした反乱」としている。中国政府はその反乱を鎮定した後、1965年9月に「チベット自治区」を設立した。
 しかし現在では「帝国主義からの防衛」も「封建的特権階級の排除」も口実として使えなくなっている。80年代の鄧小平時代から登場したのは、チベット経済の活性化、そのためのインフラ整備には中国の力が必要という正当性の主張であった。そして「チベット問題」は中国にとってむしろ「国際政治上のやっかいな問題」と化しており、ダライ=ラマ側に対するかなり妥協的な提案もしている。しかし、あくまで「中国は一つ」の原則を譲らない中国側と、香港のような一国二制度でもいいから自治権を認めよというダライ=ラマ側の要求はまだまだその差が埋まっていない。<参考 王柯『多民族国家 中国』2005 岩波新書>
 なお、2019年10月、チベット亡命政府は亡命者の代表者会議を開催し、ダライ=ラマ制度の存続を議決したという。 → ダライ=ラマの項を参照
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ルヴァンソン/井川浩訳
『チベット』
文庫クセジュ 2009

王柯
『多民族国家 中国』
岩波新書 2005