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ベギン

イスラエルの右派政党リクード党首。首相としてエジプトとの和平交渉に応じ、1979年に和平条約を締結。その一方で1982年にPLOの拠点であったレバノンに侵攻し、緊張を高めた。

 ベギンは軍人出身、イスラエルが建国された1948年のパレスチナ戦争でのイスラエル軍によるパレスチナ人虐殺事件であるディル・ヤーシーン村事件の責任者であった。政界に転じてからは、シオニズム主流派の社会主義的な路線をとる労働党政権がパレスチナ分割案を受容したことに反発して、「修正シオニズム」といわれる軍事力強化による「大イスラエル」(ヨルダン川西岸も含めた全土をイスラエル領と主張する)を唱え、右派強硬派の指導者となった。イスラエルが中東戦争で軍事的勝利を重ね、占領地を拡大していく中で次第にその指示を強め、ついに1973年に右派を結集してリクード党を結成した。リクードとは団結の意味している。
 タカ派として知られていたリクード党首ベギンは、1977年の選挙で勝って党首ベギンがイスラエル首相に就任、政権を獲得した。政権につくと、ベギンはエジプトとの和平交渉に応じるなど、柔軟な現実路線をとり、世界を驚かせることとなった。

エジプトとの和平

 1978年9月、イスラエル首相ベギンは、エジプトサダト大統領のエジプト=イスラエルの和平交渉に応じ、アメリカ大統領カーターの仲介によってキャンプ=デーヴィット合意に至った。それを受けて1979年3月26日エジプト=イスラエル平和条約を締結し、同時にシナイ半島の返還を認めた。ベギンはその功績によって、サダトと共にノーベル平和賞を受賞した。しかし、エジプト=イスラエル平和条約は中東和平は実現せず、新たな対立を生み出すこととなった。

レバノン侵攻を実行

 しかし、ベギン首相はイスラエル占領下のパレスチナ人の自治問題ではほとんど取り組むことがなかった。エジプトとの和平を実現して南方の安全を確保したベギンのイスラエルは、ベイルートのパレスチナ解放機構(PLO)の拠点をたたくことに転じ、1982年にレバノン侵攻を実行した。これは第5次中東戦争とも言われる実質的な戦争であり、ベギンの強硬姿勢に対する国際世論の非難も強かったが、イスラエル軍の攻勢は止まず、結局PLOはベイルートを脱出し、チュニスに逃れることとなった。
 イスラエル軍のレバノン侵攻では、親イスラエルのキリスト教マロン派武装勢力(ファランジスト)によるパレスチナ人虐殺事件も起きて国内にも批判が生じ、ベギンは1983年に辞任、同じく右派のシャミールが首相となった。
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