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キャンプ=デーヴィッド合意

1978年、米大統領カーターが仲介し成立した、エジプトとイスラエルの和平、国交樹立の合意。これによってエジプトはイスラエルを承認、中東での対イスラエル戦線から離脱した。

キャンプ=デーヴィッド合意
キャンプ=デーヴィッド合意

Source: Wikimedia Commons (Public Domain)

左からサダト、カーター、ベギン 1978年9月

1978年9月17日、アメリカ大統領カーターの別荘キャンプ=デービッドで、エジプトサダト大統領と、イスラエルベギン首相が会談、12日間にわたる協議の結果、エジプトはイスラエルを承認し、国交を開くこと、その代償としてイスラエルはシナイ半島を返還し、ガザ地区とヨルダン川西岸のパレスチナ人の自治について交渉をすることで合意した。合意は翌年3月エジプト=イスラエル平和条約として結実し、シナイ半島はエジプトに返還されたが、その他の地区の返還は実現しなかった。
 また、他のアラブ諸国とパレスチナ解放機構(PLO)はこの合意に強く反発した。

キャンプ・デービットの苦い果実

 キャンプ・デービッドの合意に署名したサダトとベギンは中東に平和をもたらしたとして1978年度のノーベル平和賞を受賞した。また仲介したカーター大統領の外交的功績として高く評価された。
 そして確かにこれ以来、エジプトとイスラエルは戦争していない。しかし、エジプトが反イスラエルというアラブ諸国の戦線から離脱したことは、中東の軍事バランスを一変させることになった。これまでのイスラエルの建国と膨張に対して、周辺のアラブ諸国が共同で抑えようという構図が、4次にわたった中東戦争の対立軸であったが、そこからエジプトが撤退したことで、イスラエルにとっては大きく有利な情勢となった。それまでアラブの中の大国エジプトとシリアに北と南から抑えられていたのが、北のシリアだけを相手にすれば良い、という状況になったからだ。
 実際、イスラエル側はこのキャンプ・デービッド合意でのガザ地区とヨルダン川西岸の自治に関する交渉を進めることはなかった。パレスチナ人の自治、難民問題の解消など、パレスチナ問題の根本にかかわる解決は図られなかった。これらの現実から、「キャンプ・デービッドの苦い果実」と言われている。<高橋和夫『イランとアメリカ、そしてイスラエル』2026 朝日選書 p.96>

パレスチナ問題の転換

 この合意でエジプトがイスラエルを承認し、イスラエルとの戦いから撤退したことは、それまでのパレスチナ問題のアラブ諸国対イスラエルという国家間の対立軸であったものが、イスラエル対アラブゲリラという構図に転換することになった。
 この合意に強く反発したのがパレスチナ解放機構(PLO)だったが、イスラエルにとってはエジプトという背後の力を失ったPLOを叩くチャンスが到来した、ということだった。イスラエルは中東の軍事バランスが崩れ、圧倒的優位に立ったことを利用して、PLO一掃をはかった。1982年、イスラエルはレバノンに侵攻し、PLOをチュニジアに退去させることに成功した。
 イスラエルはその後もレバノン南部の占領を続けて直接支配、北部レバノンはキリスト教民兵組織マロン派の民兵組織を使って間接統治した。レバノンの約3分の一を占めるシーア派はPLOの存在も歓迎していなかったが、イスラエル軍の居座りとマロン派の支配もそれ以上に許しがたいものであった。そこで彼らが組織したのがヒズボラという抵抗組織だった。ヒズボラは1979年のイラン革命で成立したイランのシーア派政権の軍事組織革命防衛隊の指導を受け、急速に勢力を拡大させた。
 このヒズボラは、パレスチナのガザ地区で生まれた反PLOのアラブゲリラ組織であるハマスとともに、イスラエルの新たな「敵」となり、自爆テロという新たな戦術でイスラエルを悩ますこととなる。またその背後にある非アラブのシーア派宗教国家イラン=イスラーム共和国が大きく情勢にかかわることとなった。イランは1980年代はイラクとの戦争に忙殺されていたが、それが終了した後の1990年代以降は、イスラエルの最大の敵対勢力としてあらたな中東の対立軸となる。またその対立は国家間の戦争というノーマルな形をとらず、自爆テロと報復の応酬という、アブノーマルな、非公式の戦争へと形態を転換させていく。
 キャンプ・デービッド合意による和平の代償は、あまりにも大きかった。