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パレスチナ解放機構/PLO

1964年、ナセルなどの支援で結成された、イスラエルによって占領されているパレスチナのアラブ人の解放を目ざす武装組織。70~80年代、アラファト議長に指導され、盛んにゲリラ活動を行った。90年代には中東和平に転じ、イスラエルとの二国家共存に踏み切り、パレスティナ暫定自治政権を樹立したが、2000年頃以降は二国家共存を拒否するイスラーム原理主義組織ハマスが台頭し、政権を失った。

PLOの組織

 1964年5月に、エジプトのナセル大統領などのアラブ連盟の支援を受けて、パレスチナ解放機構が組織された。この Palestine Liberation Organization の略称がPLO。同年5月、東イェルサレムで最高機関の国会にあたるパレスチナ民族評議会(PNC)第1回会議を開催し、内閣にあたる執行委員会、軍事部門のパレスチナ解放軍(PLA)、財政部門のパレスチナ民族基金(PNF)を発足させ、「パレスチナ民族憲章」を採択してイスラエルに対する武力闘争とユダヤ国家の撲滅を呼びかけた。PLOは当初は必ずしもゲリラ闘争やテロを戦術とはしておらず、パレスチナ国家の建設を目指すアラブ人の国際機関という性格が強かった。PLOはいくつかの政治団体によって構成されていたが、武装闘争を志向するアラファトの属するファタハのほかに、最も急進的なマルクス=レーニン主義を掲げたパレスチナ解放人民戦線(PFLP)などの各派があった。
 パレスチナ解放機構が結成されたことに対してイスラエルは神経を尖らし、それを支援しているエジプトとシリアに対して警戒を強め、武力による脅威の排除の機会を狙った。

第3次中東戦争

 1967年6月第3次中東戦争でエジプトを主体とするアラブ軍はイスラエルに敗北し、パレスチナ人の居住地であるヨルダン川西岸(東イェルサレムを含む)とガザ地区、シナイ半島を占領され、多数のパレスチナ難民が生まれ、周辺のアラブ諸国に逃れた。この敗北はアラブ諸国に大きな衝撃を与え、パレスチナ難民の救済のためにはパレスチナの地を奪回しなければならないと言うことが共通の目的となった。
アラファトの登場 PLOでは1969年2月に明確な武力闘争を掲げるファタハの指導者アラファトが議長に就任、ゲリラ戦術によるイスラエルに対する抵抗とパレスチナの解放を実力で勝ち取る路線へと転換した。 → パレスチナ問題/中東問題(1970年代)

ゲリラ活動とヨルダン内戦

 1970年にはPLOの各派のパレスチナ・ゲリラが旅客機4機をハイジャック、爆破するという事件を起こした。パレスチナ・ゲリラはヨルダンを基地に活動し、ヨルダンの王政を批判するようになったので、ヨルダンのフセイン国王はパレスチナ・ゲリラ基地の排除をねらい、1970年9月16日にPLOと戦闘を開始、ヨルダン内戦となった。このアラブ同士の争いを解決するためエジプトのナセル大統領が和平交渉を仲介しようとしたが彼自身が急死したため失敗に終わった。その結果、PLOはレバノンに逃れざるを得なくなり、この同じアラブ人であるヨルダン政府による弾圧をパレスチナ人は「黒い9月」といって嘆いた。

PLOのテロ活動

 本拠地をレバノンのベイルートに移したが、そのころからPLO内部にも過激な集団が現れ、分裂と対立を繰り返しながらそれぞれ競うようにテロ活動を展開した。PLOに所属する政治集団パレスチナ解放戦線(PFLP)に協力した日本赤軍は1972年5月にイスラエル・テルアビブ近郊のロッド空港で無差別銃撃事件を起こし、同年1972年9月には同じくPLOの主流派ファタハに属する「黒い9月」グループはミュンヘン・オリンピック襲撃事件を行い、その他にもドイツのバーダー=マインホフ=グループなど国際的なテロ組織が参加してハイジャックや空港襲撃を繰り返した。イスラエル側も反撃して、PLO活動家やアラブ人をたびたび襲撃した。

第4次中東戦争

 1973年にエジプトのサダト大統領がイスラエルを急襲し、第4次中東戦争が起こった。しかしイスラエル軍に反撃され、アラブ側は石油戦略でイスラエルとそれを支援する西欧諸国に圧力をかけたが、結局イスラエル軍の占領地であるシナイ半島ゴラン高原ヨルダン川西岸ガザ地区を奪回することはできなかった。その結果、エジプトは財政不安にみまわれて軍事力によるイスラエルとの対決という路線から、和平を模索する姿勢に転換したため、アラブ民族主義運動での主導権を失っていった。

PLOの外交攻勢

 1974年、モロッコの首都ラバトで開催されたアラブ連盟加盟国の首脳会議(アラブ・サミット)に、PLOはパレスチナ代表として参加し、唯一正統な代表と認められ、同時にヨルダンがヨルダン川西岸の統治権を放棄してたことでPLOの統治下に入り、PLOは領土を持ち、国家と同等の地位を得た(それまでは「領土無き国家」だった)。同年11月には国際連合のオブザーバー組織として認められ、アラファトが初めて国連総会で演説した。

レバノン内戦

 しかし、PLOのパレスチナ統治は足下のアラブ諸国の足並みが乱れ、順調に進むことができなかった。レバノンはアラブ諸国といいながら国内でキリスト教徒も多く、宗教内乱が続いていたが、1975年4月13日からキリスト教マロン派民兵組織などがPLOの退去を求めて戦闘を開始、レバノン内戦となった。内戦は泥沼化し、シリアアサド政権が介入してPLOを攻撃、PLOは苦境に立たされた。アサドはパレスチナで進む民主化がシリアに波及し、独裁体制が脅かされることを警戒したのだった。PLOの中の最過激派PFLPは、1976年6月にフランスの航空機をハイジャックし、エンテベ空港事件を起こし、アラファトの統制が及ばないことが明らかになってきた。

エジプトとイスラエルの和平

 エジプトのサダト大統領は1977年に突然イスラエルを訪問して、PLO抜きエジプト=イスラエルの和平交渉を開始、1978年にイスラエルのベギン首相とのエジプト=イスラエルの和平で合意し、1979年3月26日エジプト=イスラエル和平条約を締結した。それによってシナイ半島はエジプトに返還されることになったが、ヨルダン川西岸・ガザ地区のパレスチナ人居住区はイスラエル占領が続くこととなり、PLOは強い不信を抱き、レバノン南部を基地とするイスラエルへのテロ攻撃をさらに活発にしていった。

イスラエルのレバノン侵攻

 イスラエルベギン政権は、エジプトとの和平で南部での脅威を解消した後、北部のレバノンにおけるPLOの排除に本格的に乗り出し、1982年6月にシャロン将軍の指揮のもと、レバノン侵攻を行い、ベイルートを猛爆し、PLOはアラファト議長以下がやむなく本拠地をチュニジアのチュニスに移さなければならなかった。このとき、以前からPLOと対立していたレバノンのキリスト教マロン派の民兵組織によるパレスチナ難民虐殺事件が起きた。
 パレスチナの地から遠く離れたことによってPLOはそれまでのようなテロ活動を続けることが困難となり、アラファト率いる主流派のファタハは外交手段による国際的な地位の向上を目指すことにし、並行してイスラエルとの和平、つまりパレスチナにおけるイスラエルとの「二国家共存」の模索も始まった。しかしファタハのこのような転換に対し、パレスチナ問題が発生してから25年近く経つなかで登場した若い世代はゲリラによる戦いの継続を主張するようになった。 → パレスチナ問題/中東問題(1980年代)

インティファーダ

 PLOがチュニジアに去った後、パレスチナでは1987年12月からイスラエル占領に抵抗する自然発生的な民衆蜂起である第1次インティファーダ(一斉蜂起)が始まった。PLOでは主流派のファタハにかわり、イスラーム原理主義ムスリム同胞団の流れをくむハマスが台頭した。インティファーダは、イスラエルに対する抵抗・反抗の手段がそれまでのPLOのテロに代わって、投石という原始的かつ大衆的な蜂起へと変化したことを示している。

二国共存路線への転換

 この時期からPLOは過激な武装闘争を放棄して現実的な話し合い路線に転換し、1988年にはアラファト議長は国連で演説、テロ行為の放棄とイスラエルを認めて「パレスチナにおける二国共存」路線に転換し、ヨルダン川西岸とガザ地区のみのパレスチナ国家とすることに合意することを表明した。
 1989年の冷戦終結、さらに1991年の湾岸戦争後にはアメリカの中東への発言力が強まった。1991年10月末、マドリードでアメリカのブッシュ(父)・ソ連ゴルバチョフ両大統領の共催という形で主要国とイスラエル。パレスチナの双方を招聘して中東和平会議が開催されたが、イスラエルがPLOを当事者とすることに反対したためパレスチナ代表には加われなかった。事実上パレスチナを統治する立場にあったPLOが参加できなかったため、中東和平は具体的な成果なく終わった。
 しかしPLOも中東和平会議に参加できなかったことで、国際的な孤立から脱却し、外交交渉で立場を主張する必要を痛感したと思われる。

中東和平交渉の進展

 アメリカ主導の和平交渉の失敗を受けて、ノルウェーのホルスト外相を仲介者として秘密裏にPLOとイスラエルの直接交渉が始まり、両者はオスロ合意を経て1993年にアラファト議長とイスラエルのラビン首相との間でパレスチナ暫定自治協定に調印し、ようやく和平実現への端緒をひらかれた。それによって翌94年からパレスチナ暫定自治行政府ガザ地区ヨルダン川西岸を統治することとなった。アラファトなどPLO指導部もパレスチナに戻り、自治行政府を主導することになった。この自治政府の実体はパレスチナ解放機構(PLO)がになっており、自治行政府の長はPLO議長が兼ねている。
 しかし、一方のイスラエルでは和平を進めたラビン首相が暗殺されて再び強硬路線に転じ、またパレスチナでもイスラーム原理主義の影響を受け、PLOの妥協的な和平に反発する勢力も台頭するようになった。

PLO国家の失敗

 1994年にアラファトとファタハのPLO指導部はパレスチナに戻り、PLOはパレスチナを代表する国家機構となって自治行政府を主導することになった。しかしPLO主流派ファタハは、その支持基盤を国外のクウェートやイラクのパレスチナ人からの資金援助に置いていたため、現地のパレスチナ人を軽視しする傾向があった。またファタハによる政権を独占、アラファト自身の個人支配が色濃く、非民主的な腐敗が次第に目立っていった。そのためPLOは民衆の期待を裏切る形となっていった。
 それに対してハマスは、「二国家共存」を否定してパレスチナの完全解放(つまりイスラエルの消滅)を掲げ、同時にイスラーム教に基づいた宗教国家の建設を主張し、自治政府のもとで不十分だった貧民救済や医療などの活動を積極的に行って民衆の支持を受けるようになった。

第2次インティファーダ

 2000年にはパレスチナ人による第2次インティファーダが起こり、その前線に立ったハマスが、パレスチナにおける主導権を握ることとなった。同時にハマスは投石だけの戦術の限界を意識し、でイスラエルに対抗するミサイルなどで武装する方向に転じていった。

9.11以後の情勢

 2001年、アメリカで9.11同時多発テロが起きると、アメリカのテロとの戦いに同調したイスラエルはPLOへの攻勢を強め、ヨルダン川西岸に侵攻し、アラファト議長を事実上の軟禁状態に追い込んだ。アラファトはパレスチナ人のPLO離れが進む中、2004年には失意のうちに死去した。PLO議長にはアラファトの片腕であったファタハのアッバスが就任した。アッバスは国際社会に承認された、「二国共存」によるイスラエルとの和平を継承し、秩序の回復を目指した。
 イラク戦争を進める前提としてパレスチナの安定を図ったアメリカのブッシュ(子)大統領が仲介して中東和平のロードマップを作成することで合意し、2005年、イスラエルのシャロン首相は和平路線に転じ、ガザ地区の入植者と軍の撤退に応じた。

ガザ地区のハマス政権

 2006年のパレスチナ総選挙では、ファタハは第一党の地位をハマスに奪われた。着実に民衆の支持を取り付けたハマスはガザ地区を完全に支配し、PLO(ファタハ)の統治はヨルダン川西岸のみとなり、パレスチナは分裂状態となった。
 ガザ地区を統治するハマスはイスラエル及び国際社会の大勢からはテロ集団と見なされて孤立し、経済封鎖を受けることとなった。ガザ地区のハマスをテロ集団と見なすイスラエルは、2008年にハマスを壊滅させるとしてガザ地区を空爆、それに対してハマスもロケット弾で反撃、2009年にはイスラエル地上部隊が侵攻するなど、ガザ戦争といわれる儒教となった。 → パレスチナ問題/中東問題(1990年代~現代)
 一方、2012年には、パレスチナは国連総会においてパレスチナ暫定自治行政府、つまりPLOを唯一の政府とする国家として、従来のオブザーバー組織から、国際連合のオブザーバー国家(投票権なし)への格上げが承認された。
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書籍案内

高橋和夫
『アラブとイスラエル
―パレスチナ問題の構図』
1992 講談社現代新書

1990年代初頭までなので情報としては古いが、戦後の中東問題を理解するには図版も豊富で有意義な一冊。

森戸幸次
『中東和平構想の現実
―パレスチナに「二国家共存」は可能か』
2011 平凡社新書

時事通信特派員として長く中東に滞在した筆者が、なぜ中東和平が進展しないかについて、パレスチナ人に取材した注目すべき書物。

臼杵陽
『世界史の中のパレスチナ問題』
2013 講談社現代新書

古代から現代までをカバーしてパレスチナ問題の歴史的経緯を詳細に解説。新書版にしては大部だが最新情報まで含んでいて便利。

広河隆一
『パレスチナ(新版)』
2005 岩波新書

マロン派民兵による残虐事件を現場で目撃した著者が、写真とともにこの本で詳しくレポートしている。

山井教雄
『まんがパレスチナ問題』
2005 講談社現代新書

複雑なテーマを漫画化している。参考にはなるが、マンガで勝手なイメージを作るのではなく、文章によって概念化を図る必要がある。