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シャロン

イスラエルの軍人出身政治家で対パレスチナ強硬派として2000年の第2次インティファーダを引きおこした。2001年から第2次リクード党首として首相となり、和平派に転身し、2005年にガザ地区からの撤退を実現した。2006年に病死した。

 2001年~2006年のイスラエル首相。元は軍人で、第3次中東戦争第4次中東戦争、さらにレバノン侵攻で活躍し、国民的人気が高かった。イスラエルの対パレスチナ強硬派であるリクードの党首となり、2000年9月28日、イェルサレムのイスラーム教聖域に立ち入ってパレスチナ側の激しい第2次インティファーダを呼び起こした。これは1993年のオスロ合意で形成されたパレスチナ和平の流れを押しとどめ、対立を激化させる引き金となった。 → 中東問題(現代)

タカ派政権の強硬策

 オスロ合意後もパレスチナ人とアラブ人との対立はなおも続き、さらに厳しくなった。イスラエル国内でも和平の機運が後退したことで、対アラブ強硬路線をを主張するリクード党は支持がひろげ、2001年2月に強硬派シャロンは首相に選出された。同年9月に9.11同時多発テロが起こり、アメリカのブッシュ(子)大統領が「テロとの戦い」を表明すると、シャロンはそれに同調、パレスチナのテロ組織壊滅に乗り出すと称して、2002年3月、パレスチナ自治区への侵攻を実行、ヨルダン川西岸のラマラの自治政府大統府を包囲攻撃し、アラファト議長を監禁状態に置いた。

和平推進に転換

 アメリカはイラク戦争後の中東情勢での主導権を握るため、2002年に中東和平のロードマップを提案した。シャロンは2003年1月から第2次内閣を率い、政権を維持したが、党内にさらに右派であるネタニヤフが台頭すると、それとの対抗のためロードマップによる和平推進に立場を変えた。イスラエル首相として初めてパレスチナ人の国家の存在を容認し、さらにイスラエルの占領地ガザ地区からの完全撤退を証明し、2005年8月に撤退を実行した。
ガザ地区からの撤退 イスラエルのガザ地区からの撤退とは、ユダヤ人入植者を退去させ、イスラエル軍を撤退させることであった。入植者とイスラエルの右派(シオニスト強硬派)は頑強に抵抗したが、シャロン首相は軍と警察を動員して強行した。シャロンが表明した撤退の理由は、ガザ地区入植者を守るための軍の駐留費が国家財政を圧迫しているため、というものであったが、シャロンは反対を押し切って入植者を退去させることで、ロードマップ合意に忠実にパレスチナ和平を推進する平和主義者であるという世界的なイメージがつくられた。しかし、ガザ地区はイスラエルは撤退したものの、パレスチナのヨルダン川西岸と分離され、経済的に孤立する状態となって、事実上の“占領”状況は変わることがなかった。
パレスチナの壁を建設 シャロンはガザ地区からは入植者を撤退させたものの、一方で占領を続けるヨルダン川西岸ではユダヤ人の入植をさらに進め、その治安を守るためと称して、アラブ人居住地とのあいだに長大な壁を建築した。またガザ地区に対しては経済的に孤立させ、境界線上にも壁を建設して自由な交通を遮断、事実上の占領状態を継続した。

カディマの結成と急死

 シャロンが国際的な外交面では和平路線に転じたことにたいして、リクード内の右派(ネタニヤフなど)はイスラエルの妥協につながるとして強く反対するようになり、対立が深まる中、シャロンは2005年11月、リクードを離党して中道政党ガディマを結成した。この結果、イスラエルは右派(強硬派)のリクード、中道派のガディマ、左派(和平派)の労働党という三党が争うという形勢となった。
 シャロン政権はガディマと労働党の連立を組み、和平実現に国際的にも期待が高まったが、2006年1月に脳溢血で倒れガザ完全撤退は頓挫した。その後、イスラエルではガディマのオルメルトが首相となったが、リクード(元首相ネタニヤフが率いる)も力を増し、一方のガザ地区のパレスチナ人の中でも自治政府のアッバス議長(ファタハ)の和平路線に反対するイスラーム原理主義強硬派のハマスが台頭し、2008年末には軍事的緊張が高まり、イスラエル軍のガザ侵攻という事態となった。
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臼杵陽
『イスラエル』
2009 岩波新書