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クルド人/クルディスタン

西アジアのトルコ、イラン、イラク、アルメニアにまたがって居住する民族。古代以来の長い歴史を持つが、民族国家を形成したことはなかった。第一次世界大戦後、いったん独立が承認されたが、結局は実現できなかった。第二次世界大戦後、ソ連の支援で一次独立したが、すぐに倒され、現在も民族国家を実現できないでいる。2010年ごろから、シリア内戦の中で実質的な自治をめざす運動が強まっている。

クルディスタン

現在のクルド人居住範囲

 クルド人はトルコ、イラン、イラク、アルメニアの国境の接する山岳地帯(クルディスタンと呼ばれる約40万平方km)に居住する民族で、人口は約2千数百万と推定されている。インド=ヨーロッパ語族のペルシア語系に近く、宗教ではイスラーム教のスンニ派が大半(3分の2)を占め、少数がシーア派(3分の1)である。中東ではアラブ人、トルコ人、イラン人につぐ大きな民族であるが、国家を持たない最大の民族となっている。なお、12世紀にアイユーブ朝を建て、第3回十字軍と戦ったサラーフ=アッディーン(サラディン)はクルド人であった。 → 現代のクルド人問題

イスラーム世界のクルド人

 クルド人は、黒い上着にゆるやかなズボンをはき、きっちりとまいた幅広の帯に大きな柄の短刀をさして、巧みに馬をのりこなす勇猛果敢な民族というのが一般的なイメージであろう。
 ウマイヤ朝・アッバース朝などのアラブ人イスラーム政権はしばしばクルド人の反乱に悩まされたが、これらの戦いの間にクルド人のイスラーム化が徐々に進行した。そしてアッバース朝の分裂に乗じて、950年頃にはイランの北西部にシャッダード朝、ついで960年ごろにハサナワイヒ朝を樹立し、さらに980年代にはモスルを中心とするジャジーラ地方にマルワーン朝(983~1085)を建てて自立した。しかし、マルワーン朝がセルジューク朝によって滅ぼされてからは周辺の諸国に翻弄され、今日にに至るまで独立の国家を持つことはできない状態が続いた。十字軍の時代にはセルジューク朝の軍隊に採用され、イクター(分与地)を与えられてそこからの税収によって生活するものもあった。サラーフ=アッディーン(サラディン)の父は、地方統治をになう代官職に抜擢された。また叔父のシールクーフはザンギー朝のヌールアッディーンに仕えてファーティマ朝エジプトに侵攻して功績を挙げた。<佐藤次高『イスラームの英雄サラディン』1993 講談社選書メティエ p.24>

独立否認される

 近代では多くがオスマン帝国領内に居住したが、第一次世界大戦が起きると、オスマン帝国と戦っていたイギリス・フランス・ロシア三国はこの地域も含め、戦後に三国で分割する密約としてサイクス=ピコ協定を結んだ。大戦の結果、オスマン帝国が敗北し、連合国との間にセーヴル条約が締結され、そこで初めてクルディスタンの独立が承認された。しかし、オスマン帝国をトルコ革命で倒して成立したトルコ共和国が反発して、1923年に新たな講和条約としてローザンヌ条約が締結されると、一転してクルディスタンの独立は否認された。

クルド人の苦悩

 クルド人は結局独立が認められず、トルコ共和国・シリア・イラク・アルメニアなどに分割された。クルド人の独立運動は1925年頃から主にトルコ領で起こり、さらにイラク領にも及んでいった。しかしイラク王国では北西部のモースル、キルクークの油田地帯がクルド人地域なので、独立運動は厳しく抑えられた。
 第二次世界大戦後、イラン北西部に勢力を伸ばしたソ連の支援によって、1946年に「クルディスタン共和国」が独立したが、産油地域であったためにイギリス・アメリカが干渉し、ソ連も撤退したため、新国家は一年も持たず崩壊、大統領は処刑されて終わった。
 大戦後、クルディスタンを分割支配したイラク共和国イラン(パフレヴィー朝)、トルコ共和国は一定の自治を認めながら、その独立は認めようとしなかった。それはこの地域が原油埋蔵地帯であった。特に1980年代のイラクのサダム=フセイン政権のもとでクルド人の独立運合田起こったが、独裁政権のもとイラク軍によって厳しく弾圧された。この時はクルド人に対する化学兵器による大量殺害の疑いがもたれている。クルド人の独立は、トルコ、イラン、イラク三国の利害が絡むだけに困難な状況が続いている。<藤村信『中東現代史』1997 岩波新書 p.64 などによる>

現代のクルド人問題

シリア内戦とクルド人

 シリア共和国の北部からトルコ・イラクとの国境地帯にも多数のクルド人が居住している。親シーア派であるシリアのアサド政権は、スンナ派が多いクルド人に対しては厳しくあたったので、シリア内のクルド人の中に反アサドの声が強まってきた。2011年、チュニジアに起こったアラブの春の民主化運動がシリアにも及び、激しいシリア内戦が起こると、その機会にクルド人の自立の動きにが急激に強まった。2014年からは新たなイスラーム過激派による「イスラーム国(IS)」が出現し、一時は国土の大半を支配下に収めるほど急成長した。その特苦境に立ったアサド政権を救う形になったのがクルド人勢力だった。
 2017年にはイラクのクルド人自治区で独立の是非を問う住民投票が実施され、圧倒的多数の賛成があったが、イラク・イラン・トルコはいずれも住民投票そのものを認めず、国際的支援もなく、ここでも実現しなかった。イランとトルコはイラクのクルド人独立が自国のクルド人独立に結びつくことを強く警戒したためであった。

アサド政権、イスラーム国、クルド人勢力

 シリア内戦でアサド政権政府軍、イスラーム国軍と三つ巴の戦闘を展開したのがクルド人の武装組織「人民防衛軍」(YPG)であった。シリア内戦に介入したアメリカはクルド人勢力に武器・資金を提供、アサド政権軍・イスラーム国軍と戦わせた。YPGはアメリカ軍に協力してイスラーム国軍との戦いで中心的役割を果たし、サダト政権もロシアとイランの軍事支援を受けて盛り返し、2018年4月までにイスラーム国をほぼ壊滅に追いやられた。トルコはアサド政権・イスラーム軍を倒すことではアメリカと一致し、協力していたが、クルド人勢力に対してはトルコ国内のクルド人独立運動(クルディスタン労働者党、PKK)のテロ活動とつながっているとして協力を拒否、敵対関係にあった。シリアの東北部約3分の1を抑えたクルド人勢力がアサド政権に対して自治を認めるよう要求したが、アサド政権がそれを認めなかったのはトルコとの関係悪化を恐れたからであった。

NewS トルコ軍、クルド人掃討に踏み切る

 このような複雑な関係の中でトルコも表面きってはクルド人勢力を攻撃できないでいたが、イスラーム国がほぼ壊滅したことを受けて、トランプ大統領がシリアからのアメリカ軍の撤退を表明したことにより、アメリアの重しがはずれた格好となった。2019年10月、アメリカ軍がシリアからの撤退を開始すると、6日にはトランプ大統領は「トルコ軍の作戦には関与しない」と声明、待ってましたという感じでトルコのエルドアン大統領はシリアのクルド人武装勢力(YPG)掃討に乗りだし、越境した。アメリカが黙認する形となり、トルコのクルド人勢力掃討作戦は激化の様相を呈している。トルコがそれまでのシリア・アサド政権打倒という方針から、クルド人掃討を優先する戦略に転換したことを示しているが、それはアサド政権とそれを支援するロシア・イランにとって有利な情勢を生み出している。<朝日新聞 2019年10月8日、11日朝刊による>
 トランプ大統領は「ばかげた終わりの見えない戦争から抜け出す時だ」とツィートしたというが、クルド人、シリア人にとっては、けして馬鹿げた戦争としてかたづけられないであろう。
 日本には現在、トルコ出身のクルド人が移り住んでいて、埼玉県蕨市にはそのコミュニティーがつくられている。彼らは難民申請しているが日本は難民認定されるのは難しく、教育や医療で問題が生じているという現実もある。

出題

 01年 センターテスト世界史B本テスト (第1次世界大戦後にオスマン帝国の領域に)国境線が引かれる過程で、多くの民族問題が生まれた。トルコやイラクなどの国境線で分断されたクルド人の問題はその一例である。
問 下線部の問題の発生について述べた次の文の空欄( a )と( b )に入れる条約の名をあげよ。(一部改訂。選択肢省略。)
1920年に、敗戦国オスマン帝国が連合国と結んだ( a )は、領土の大幅削減のほか、アナトリア東部のクルド人への自治権付与を認めていた。しかし、帝国滅亡⑤の1923年に、トルコ新政府が独立を確保するために連合国と結んだ( b )は、クルド人の自治権には触れていなかった。
 解答 
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書籍案内

佐藤次高
『イスラームの英雄サラディン』
1993 講談社学術文庫