印刷 | 通常画面に戻る |

セーヴル条約

1920年、第一次世界大戦後のオスマン帝国と連合国の講和条約。オスマン帝国の領土の大半が分割される内容に反発が強まり、トルコ革命の後、トルコ共和国によって破棄されて、新たに1923年にローザンヌ条約を締結する。

 第一次世界大戦後の1920年8月に締結された連合国とオスマン帝国(トルコ)の間の講和条約。対独講和条約であるヴェルサイユ条約など一連の第一次世界大戦の講和条約の一つ。オスマン帝国政府は締結に応じたが、領土のほとんどの割譲、主権の侵害など非常に苛酷な内容であったため、反発したトルコ人はムスタファ=ケマルの指導のもと締結を拒否、同時に領内に侵攻してきたギリシア軍を撃退し、改めて1923年にローザンヌ条約を締結して主権の確立とアナトリアの領土回復などに成功した。

セーヴル条約の事情

サン=レモ会議 イギリス、フランス、イタリアなど戦勝国はまず1920年、イタリアでサン=レモ会議を開催、戦前の秘密協定(サイクス=ピコ協定)に基づき、オスマン帝国領のアラブ地域の分割を協議し、アラビア半島以外のメソポタミア・パレスチナなどのアラブ人居住地域をオスマン帝国領からはずし、イギリスとフランスの委任統治とすることを決定した。委任統治とは国際連盟規約第22条で規定されている、旧植民地で自立する条件のない地域を、国威連盟に委任された先進国が受任国として統治する方式である。
 また、バルフォア宣言を確認し、ユダヤ人国家建設を合意した。イギリスとフランスは別に石油協定を結び、利権を分割した。

オスマン帝国の分割案

 イギリス、フランス、イタリアはサンレモ会議の合意を経て、パリ郊外のセーヴルで連合国とオスマン帝国の講和会議を開催し、1920年8月に講和内容をセーヴル条約として押しつけた。それはオスマン帝国に対する、事実上の解体、主権の喪失を含む苛酷な講和条件であり、次のような内容であった。  トルコ人にとっては屈辱的な領土分割であり、不平等条約であったが、オスマン帝国のスルタン・メフメト6世は、連合国による一身の安全と財産保証を秘密条件としてセーヴル条約に調印してしまった。

トルコ共和国の成立とローザンヌ条約へ

 しかし国民は批准拒否に起ち上がった。ムスタファ=ケマルの率いる国民軍はこの条約の廃棄を目指して決起した。
ギリシア軍の侵攻 すでに1919年5月にギリシア軍が、小アジア西部のスミルナに侵攻し、ギリシア=トルコ戦争が戦われていたので、トルコ人は民族と祖国の危機に直面し、ムスタファ=ケマルのもとで結束した。 苦しい戦いが続いた後、トルコ人はギリシア軍を撃退し、さらにスルタン政府軍との戦いにも勝利して1922年トルコ大国民議会スルタン制廃止を決議したことによってオスマン帝国が滅亡した。 、「トルコ共和国」を樹立することとなる。その結果この条約は結局破棄されて、代わって1923年ローザンヌ条約が締結され、トルコは小アジアとイスタンブル周辺の領土と主権を回復する。それによって現在のトルコ共和国の領土がほぼ確定した。

アラブの反発

 オスマン帝国が放棄を認めた西アジアのシリアからメソポタミア、パレスチナ一帯の大部分はイギリス・フランスの委任統治領とされた。委任統治とは国際連盟から管理を委任されることで、実質的に植民地支配することと変わりはなく、戦前の英仏秘密協定であるサイクス=ピコ協定の線に沿ったイギリス・フランスによるアラブ地域の分割は、アラブ民族の怒りを買った。
 シリアではハーシム家の三男ファイサルを立て独立を宣言したが、フランスはそれを認めず、イギリスと図って、ファイサルをイラク国王、同じくハーシム家の次男アブドゥッラーをトランスヨルダン国王として懐柔した。 → アラブ諸国の独立

用語リストへ 15章2節

 ◀Prev  Next▶ 


印 刷
印刷画面へ