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アラブ諸国の独立

第一次世界大戦後、イギリス・フランスの委任統治領として分割された中東地域に新たな国家が建設された。両国の人為的な国境設定のため、現在に至るまで紛争の要因となっている。

 第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国領の分割案では、アラブ系民族居住地域は戦勝国であるイギリスとフランスによって委任統治されることとなった。両国の利害に従って線引きされ、1920年から委任統治が始まったが、アラブ系民族の独立を求める声も強くなり、両国は自国の影響力を残したままで、アラブ国家の独立を認める方策をとらざるを得なくなっていった。それによって現在見るような西アジアの中東諸国、イラク、シリア、レバノン、ヨルダン、そしてパレスチナが生まれることになるが、これらの国家の境界線の設定はイギリス・フランス両国の「勝手な線引き」(帝国主義的分割)によってなされたため、宗教分布・民族分布の実態と一致せず、現在に至るまで紛争の原因となっている。

イギリスの意図

 イギリスのはアラビア半島における反オスマン帝国勢力として、メッカのハーシム家フセインフセイン=マクマホン協定を結び、彼らによるアラブ国家の建設を支援することを約束していた。ところがその一方で、リヤドのサウード家イブン=サウードにも支援の約束をしていた。結局フセインとイブン=サウードが戦うこととなり、フセインが敗れてしまった。フサインはヒジャーズ王国から追われたが、イギリスはフセインに対する約束があったので、委任統治領をその王子たちにあてがって、国王としたのだった。三男のファイサルはイラク王国、次男のアブドゥッラーはトランスヨルダン王国のそれぞれ国王となったのがそれである。

中東諸国の独立

 1920年代に、これらの地域の中で、イギリス委任統治領からイラク王国ヨルダン王国が独立、フランス委任統治領からはシリアレバノンが独立した(独立した事情、時期はそれぞれ異なる)。パレスチナの地にはユダヤ人が入植して、アラブ側との対立を深めることとなる。第二次世界大戦末、それに対抗してアラブ諸国は1945年3月にアラブ連盟を結成したが、1948年のイスラエル建国に反発してパレスチナ戦争(第一次中東戦争)が起こったが、アラブ側の王国は結束が弱く、アメリカなどの支援を受けたイスラエルの建国を許してしまった。

宗教と民族を無視した線引き

 アラブ人の中には同じイスラーム教徒でありながらスンナ派とシーア派があり、またこの地域は少数だがキリスト教徒も存在しており、またパレスチナにはユダヤ教徒であるユダヤ人がシオニズムによって移住し始めていた。またメソポタミアからトルコ、イランにかけてクルド人が居住していた。イギリス・フランスによる新たな国家の線引きはこれらの宗教や民族の分布とはお構いなしに行われ、一つの国に民族や宗教の対立が持ち込まれた。
 またクルド人には独立を認められず、その居住地域はトルコ・シリア・イラクに分割された。これらのイギリス・フランスの身勝手な線引きが現在ますます深刻になっているパレスチナ問題、イラク問題、クルド人問題など、中東問題と総称される問題の原因となっているのである。
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