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イラン=イラク戦争

1980~88年、イラン革命直後のイランに対しサダム=フセイン独裁下のイラクが侵攻して戦争となった。宗教的対立、石油資源をめぐる対立が背景にあり、アメリカなどはイラクを支援した。イランが反撃してイラクに侵攻し戦争は長期化、その過程でイラク軍は親イランのクルド人に対し毒ガスを使用した。

 1980年9月から88年8月まで9年間にわたって続いた、イラン=イスラーム共和国イラクの戦争。9月17日、イラクのサダム=フセイン大統領が軍にイラン領内への侵攻を命じ、22日から戦闘が本格化した。国際連合安保理は緊急に停戦を決議、イラクはうけいれたがイランの最高指導者ホメイニ師は拒否し、戦闘が長期化することになった。
 戦争前半はイラク軍が優勢、後半はイラン軍が巻き返すという経過で進んだが、この戦争で初めて隣接する国が互いにミサイルで攻撃しあった最初の戦争となった。またイラク軍により化学兵器が使用され、被害が多くなったのも特徴である。
 イラン=イラク戦争ではアメリカとソ連、さらに周辺のアラブ諸国がイラクを支援した。それは前年のイラン革命が拡大することを恐れたためであった。特にアメリカは前年のアメリカ大使館人質事件が続いており、1980年4月7日にイランと国交を断絶、経済制裁を開始しており、しかも25日には大使館の人質救出作戦に失敗していたため、対イラン感情は最悪の状態だった。そのため積極的にイラクに兵器供与を供与したが、後の湾岸戦争ではイラクはその武器でアメリカを主体とする多国籍軍と戦うこととなった。
 戦争は長期化し日本では「イライラ戦争」などと言われた。国際的に孤立したイランがようやく1988年に国連安保理の停戦決議を受諾して戦争が終わった。

戦争の原因と背景

 ペルシア湾岸の石油資源をめぐる対立、以前から続いていたシャトル=アラブ川をめぐる領土対立などがあげられるが、イラクのサダム=フセイン大統領が前年に始まったイラン革命の主体となったシーア派イスラーム原理主義が、シーア派が国民の半数を占めるイラクに及ぶことを恐れたものと思われる。バース党のサダム=フセイン政権はスンナ派を基盤とし、北部のクルド人と南部のシーア派を抑圧して政権を維持していた。このように戦争の背景にはイスラーム教の多数派スンナ派と少数派シーア派の対立があった。またイラクとイランはペルシア湾岸の油田地帯の領有権を廻って対立しており、イラクのサダム=フセインはイラン革命で混乱しているあいだにイランの油田地帯の支配権を奪う野心もあったと思われる。

戦争の経緯

 戦闘は始めイラクが優勢でイラン国内に攻め込んだが、隣国シリアがイランを支援して石油パイプラインを閉鎖したため、イラクは劣勢に陥り、反撃したイラン軍が国境を越えてバスラに迫った。アメリカはイラン革命の輸出を恐れたため、イラクに軍事援助を行った。またサダム=フセイン大統領は巧みな外交によってソ連からも武器援助を受けた(当時はソ連はアフガニスタン侵攻を行っていた)。
 さらにイラクはペルシア湾のイラン原油積出港のカーグ島を空爆、石油危機を警戒した国連が停戦調停に乗り出し、1988年に停戦が実現した。直後にイランのホメイニ大統領が死去し、イラン革命の影響が消滅した。イラクのサダム=フセイン大統領は戦争で疲弊したのもかかわらず、膨大なアメリカの軍事援助を受けて独裁権力を強めることとなった。<主として、酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書 2002 による>
 イラン=イラク戦争でサダム=フセインは、国内のシーア派がイランに通じているとして厳しく弾圧、また独立の姿勢を示しているクルド人勢力に対しても化学兵器(毒ガス)を使用するなどして弾圧した。これらはイラク戦争後、サダム=フセイン政権が崩壊した後に明るみに出て、サダム=フセインを断罪する要因となった。

イラク軍の化学兵器

 イラン=イラク戦争ではイラン領内に侵攻したイラク軍が、イラン軍に反撃され、逆にイラク領内に攻め込まれた。イラク軍は劣勢をはね返す最後の切り札として、全戦線で毒ガスの使用を開始した。それはシアン・ガスをロケット砲で発射するもので、被害は非戦闘員にも及ぶことになった。そのなかでイラクは国内のクルド人勢力がイラン側についたことに対する報復としてその居住地に向けて毒ガス弾を撃ち込んだため、大きな被害が出た。特にクルド人居住地ハラブジャで、約5000人以上の死者を出すという事態となった。<『岩波小辞典 現代の戦争』p.228> → 毒ガス
 イラクはサダム=フセインの指示で化学兵器の使用を推進、1982年から対イラン戦で使い始めた。毒ガスの種類は多様で、なかで多く使われたのがびらん性のマスタードガス(イペリット)でその総量およそ3900トンに及んだ。マスタードガスを弾頭に入れた毒ガス弾は、砲弾が約5万4000発、ロケット弾が約2万7000発、爆弾が約1万9500発という、驚くほどの大量の毒ガスが使われた。マスタードガスは第一次世界大戦でよく使われたものであるが、第二次世界大戦中にドイツで作られたものの実戦で使われなかった神経ガスがイラン=イラク戦争で初めて使われた。これは毒性が強く、多くの国で主要な化学兵器となっている。神経ガスのなかで最も多かったのがタブンと呼ばれるもので、サリン(オーム真理教事件で使われた)は少なかった。イランでは当時その防御法・解毒法がわからず、犠牲が多かった。結果として軍人と民間人合計で約20万人の死傷者を出した。<アンソニー・トゥー『毒―サリン、VX、生物兵器』2020 角川新書 Kindle版 位置No.388>

参考 ハラブジャの悲劇

 1988年3月16日クルド人の街ハラブジャでの毒ガスの使用を実行した。フセインは兵士を進軍させるとともに、飛行機、ヘリコプターなどの爆撃機を用いて、空と地上から砲撃した。初めは通常兵器が使われたが、後に毒ガスが使われるようになり、住民はいたるところで殺されて死者約5000人、負傷者は約1万に及び、今も後遺症で苦しむ人が多い。<アンソニー・トゥー『同上書』 同署ではハラブジャの悲劇を写真入りで解説している>

イラク化学兵器のその後

 極秘のうちに行われたイラクの化学兵器使用であったがアメリカ国防省は早い時期に掴んでいたらしい。イラク戦争後にその事実が明らかにされ、化学兵器開発推進の中心人物、フセインの従兄弟で国防相だったアリ=ハッサン=マジド(「ケミカル・アリ」つまり<化学兵器のアリ>の異名を持っていた)が国際法廷で死刑となった。
 その後の湾岸戦争でイラク軍の化学兵器は国連によってすべて破壊された。しかし、2001年に9.11同時多発テロ事件が起きると、アメリカのブッシュ政権は、イラクは大量破壊兵器のなかに生物兵器も隠し持っている、と断定してイラクに侵攻、イラク戦争となった。しかしイラクの生物兵器はすでに破壊されており、ブッシュ政権の判断は誤っていたことが判明している。

アメリカのイラク支援とその後

イラン=イラク戦争でアメリカはイラクのサダム=フセイン政権を支援し、武器を提供した。クウェート侵攻ではその武器が使用されたと言われている。

 イラン=イラク戦争が起こると、イラン革命アメリカ大使館員人質事件など被害を受けたアメリカ(カーター政権。1981年からレーガン政権)は、シーア派原理主義政権に敵対するイラクのサダム=フセイン政権を支持し、大量の武器、資金の援助を行った。サダム=フセイン政権はアメリカによって維持されたとも言われる。イラン=イラク戦争後、多額の負債を抱えたイラクのサダム=フセイン政権は1990年8月クウェートに侵攻しその石油資源を狙うが、フセインは事前に駐イラク・アメリカ大使と会い、アメリカの黙認を取り付けたと言われている。アメリカ側はその事実を否定しているが、「アメリカに育てられた」といわれるサダム=フセイン政権がアメリカの黙認を期待したことは考えられる。
 しかしブッシュ(G.H.W=父)大統領は、冷戦の終結の世界戦略の中で、アメリカは国際平和や秩序を乱す国家の存在を許さないという姿勢を強めていたため、サダム=フセインの身勝手を認めるわけにはいかず、1991年1月湾岸戦争に踏み切った。ここではアメリカはイラン=イラク戦争の時と異なりイラク制裁を実行し、クウェートを解放したが、イラク本土には侵攻せず、サダム=フセイン政権打倒が可能であったにもかかわらずその存続を許した。それはアメリカの負い目があったことをうかがわせることであり、そのツケは、2003年イラク戦争で、ブッシュ(G.W.=子)大統領が払わされる格好となった。
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書籍案内

前田哲男編
『岩波小辞典 現代の戦争』
2002 岩波書店

酒井啓子
『イラクとアメリカ』
岩波新書 2002

アンソニー・トゥー
『毒―サリン、VX、生物兵器』
2020 角川新書

筆者は台湾出身の科学者で毒物の専門家。中国での日本軍毒ガス弾処理にあたった経験もある。イラン・イラク戦争、オーム真理教事件、 コロナウィールスなどにも論及し興味深い。