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僭主政

古代ギリシアのポリス民主政への過程で現れた、独裁的な権力の集中した政体。前6世紀中頃、アテネに現れたペイシストラトスがその例。僭主は市民に迎合しながら独裁的権力を維持したが、市民の自覚の高まりによって克服され、民主政が実現していった。

 非合法な手段で権力を奪いながら、市民の支持を受けて独裁的な支配を行ったポリスの政治のあり方。僭主はTyrant (ギリシア語のテュランノス。権力を相続以外の方法で得ることが非合法とされ、そのような方法で権力を得た者を意味した。現在では暴君の意味に使われる)という。その政治が僭主政(ティラニー Tyrany )。ポリスの典型例であるアテネにおいては、王政の次に貴族政となったが、貨幣経済の発展に伴ってポリスの市民の中に貴族平民の格差が大きくなり、両階層間の争いが激しくなっていった。この貴族と平民の対立の中から登場したペイシストラトスのが僭主政であり、次の民主政成立への過渡期と考えられる。

ペイシストラトスの僭主政

 僭主は古代ギリシアの各ポリスでも出現したが、典型的なのは前6世紀中頃のアテネペイシストラトスの政治である。アテネではソロンの改革によって市民の没落は防止されたが、市民間の貴族派(寡頭政治派)と平民派(民主政治派)の対立は続いた。前者を平野党、後者を海岸党といった。アルコン(執政官)の地位をめぐっても争いが続き、アルコン職を立てることができないこともあった。そのような政争の中で、非合法な手段で権力を握り、平民や貧民に迎合した人気取り政策をかかげ独裁的な政治を行う者が現れた。そのような政治のあり方を僭主政という。<太田秀通『スパルタとアテネ』1970 岩波新書 p.122~124 などによる>
 ペイシストラトスが不法な手段で僭主となった時、まだ存命中であったソロンは武器を取って抵抗しようとしたが、世論は僭主政を容認してしまった。ペイシストラトスはその後、政敵によって一時失脚させられたが、再び僭主に復帰し、死ぬまでその地位にあった。ペイシストラトスは僭主であった間は、国制に反することもなく、芸術を保護するなど堅実な政治を行ったが、僭主の地位を世襲したその子ヒッパルコスとヒッピアスは、市民生活を無視した暴政を行ったのでアテネ市民の反発を強め、前510年に追放され、僭主政は倒された。ついで前508年にクレイステネスの改革が行われて僭主の出現の防止策がつくられ、民主政が確立した。

Episode 独裁者になる方法

 ペイシストラトスが僭主となったいきさつはヘロドトスの『歴史』ではこう説明されている。
(引用)自分で自分の体と驢馬を傷つけておき、アゴラに車を乗り入れて、敵方が田舎へ行こうとした自分を襲って殺そうとしたが、その手を逃れてきたところだといった。そして、自分が以前・・・幾多の殊勲を樹てたことを引き合いに出して、何らかの護衛を付けてほしいと国民に訴えたのである。アテナイ国民はまんまとペイシストラトスの術中に陥って、市民の中から選抜して護衛をつけることを認めたが、ただしこの護衛はペイシストラトスの場合、通常の「槍持ち」ではないくいうなれば「棒持ち」であった。なぜかといえば、護衛たちは槍ならぬ棍棒を携えて、彼に随行したからである。ところでこ「棒持ち」たちが、ペイシストラトスと共に共謀して、アクロポリスを占拠したのである。こうしてペイシストラトスはアテナイの支配者となったのであるが、彼は既存の官制を乱したり、法律を変改したりはせず、従来の国制に遵(したが)って国を治め、見事な政治をしたのであった。<松平千秋訳『歴史』上 巻1 61節 岩波文庫 p.47>
 犠牲者を装って自衛のためだと称して武装し、力ずくで権力を奪う。国民の人気取り政策を打ち出す・・・。ヒトラーの権力掌握術となんと似ているのでしょうか。このような権力奪取がまた出現しなければいいのですが。
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ヘロドトス/松平千秋訳
『歴史』上 岩波文庫