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長江

中国最長の河川。単に「江」で長江を、「河」で黄河を意味する、中国の二大河川。中流と下流で農耕文明が発展。黄河流域の畑作に対し稲作農業が発展、ともに中国文明を生み出した。源流はチベットと青海省の氷河地帯にあり、中流が四川盆地から三峡という渓谷を通り、下流が湖北・江西・安徽・江蘇省を潤す。そのうちの最下流をかつては揚子江と呼んだ。

 長江は、全長6380km、中国最長の川。チャンチアン。中国で「」といえば黄河を、「」といえば長江を指す。かつては揚子江(ヤンツーチアン)と言われたがそれは下流の名称なので、川すべてを指すときは使わない。チベット高原に源を発して東流し、四川盆地を通り、中下流の大平原を経て東シナ海に注ぐ。特に下流一帯を江南という。現在も長江流域には、上流の四川地方の重慶、中流域の武漢、下流域の南京・上海など大都市があり、人口の集中地域となっている。 → 黄河
長江流域

長江の流域 Yahoo Map 水域図より

長江文明

 20世紀後半になって、長江流域には、約1万年前ごろから、を中心とした農耕文明が始まっていたことが判った。中国大陸においても、1万年前に農耕・牧畜の段階に達し、新石器時代に移行してたことを示しており、さらに前5000年ごろの河姆渡遺跡や良渚遺跡など高度な農耕文明を生み出していた。さらに長江流域には青銅器文明である三星堆遺跡などが次々と明らかにされていった。特に長江の下流地帯は稲作農業の起源の地としても注目されており、その後も穀倉地帯として中国最大の生産力をもっていたので、華北に成立した秦・漢帝国も江南の支配には大事な意味があった。
 かつてはこの長江流域の文明を長江文明と称し、黄河文明と対比させて説明されていたが、現在はこの両地域を総合的にとらえて、中国文明とする場合が多くなっている。

江南の開発が進む

 長江の中流から下流一帯は江南といわれ、魏晋南北朝時代から開発が始まった。特に南北朝時代に、漢民族の王朝が長江下流の建康(後の南京)に続き、漢民族による開発が進み、生産力が向上した。隋の煬帝が大運河を築いたのも江南地方の物資を抑えるためであった。

長江下流域の繁栄

 唐及び宋の時代、さらに12世紀の南宋時代に特に江南の開発が著しく進み、中国の経済を支えるようになった。この地にひろがるデルタ地帯一帯の江蘇省と浙江省にまたがる地域をあわせて江浙、または江蘇省の中心都市蘇州、浙江省の中心都市湖州の一字ずつをとって蘇湖ともいう。特に宋代には開発が進み、生産力が上がって「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」と言われた。14世紀に成立した明は中国の歴史上、江南地方から起こった最初の統一王朝であった。

長江中流域

 ところが明代の15、6世紀頃からこの地方は綿織物・絹織物の生産が増え、農民も現金収入の道である綿花や桑の栽培に転じたため、穀物生産は減少した。その結果、明代には穀物生産の中心地は長江中流の湖広地方に移り、「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになる。

三峡ダム

 長江が四川盆地を抜けて下流域に向かう間は長い峡谷となっており、三峡と言われている。三峡とは上流から瞿塘くとう峡・峡・西陵峡をいい、いずれもすばらしく雄大な渓谷美をみせている。なかでも瞿塘峡には、三国時代の劉備が亡くなったところであり、唐の李白の詩で知られる白帝城など名所旧跡が多い。
 その三峡の渓谷にダムを建設しようという計画は、孫文に始まるとも言われ、その後の中華民国の蔣介石、中華人民共和国の毛沢東も掲げた国家方針であったが、文化大革命の時期にいったん計画は頓挫し、改革開放政策に転じたことで産業用発電、農業用水利、治水を含む多目的ダムの建設が国家プロジェクトとして開始された。1993年に着工し、2009年に巨大な三峡ダムが完成した。
 そのため、峡谷地帯にあった都市、村落の住民は強制的に移住させられ、またいくつもの史跡が失われた(白帝城はダム湖上の島として残った)ことなど、多くの犠牲を強いたが、中国経済の急成長を支えた大土木工事を成功させ、電力供給が可能となったことは、現代中国の繁栄のシンボルとなった。
 2019~20年、三峡ダムが降雨量の急増した水位の調整に失敗し、下流に大きな水害をもたらしたのではないか、さらにダムそのものが決壊したのではないか、などの情報があったが、そのような事実は無い。
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DVD案内

ジャ・ジャンクー監督
『長江哀歌』
2006 中国映画

三峡ダムの建設で水没する街にやってきた男と女。長江の流れのようなゆったりと男と女それぞれ別の話が流れていく。やがてダムにしずむ街に暮らす人たちの、あきらめとしたたかさな暮らしぶりが、みずみずしく描かれる。現代中国の一端を切りとった。ベネチア映画祭金獅子賞受賞作。三峡の風景も見事。