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セビリャ

スペイン南部の歴史的都市。大航海時代、スペイン王国の海外発展の基点となって栄えた。

セビリャ GoogleMap

セビリャ Sevilla はセビーリャ、セビリアとも表記。大航海時代スペインで最も栄えた都市のひとつ。イベリア半島の南部に位置し、海岸から70kmほど内陸にあるが、グアダルキビル川によって外海と結ばれる河港都市として繁栄した。
 早い時期にフェニキア人が進出、カルタゴが地中海各地に設けた拠点のひとつであった、ポエニ戦争の過程でローマが征服、前205年からローマが都市ヒスパリスとして支配、後には属州イスパニアに組み込まれた。ローマ帝国の五賢帝の一人トラヤヌスは、この近くのイタリカの出身であった。
 ローマ帝国の衰退にあわせてピレネー山脈を越えてイベリア半島に入った西ゴートがこの地に入り、はじめは首都としたが後にトレドに遷った。

イスラームのもとでの繁栄

 8世紀にイベリア半島に入ったイスラーム教国の後ウマイヤ朝はさらに内陸のコルドバを都としたが、セビリャは商業都市として栄えていた。後ウマイヤ朝が衰えてイスラーム教国の分裂時代になるとイスラーム王国のひとつ、セビリャ王国として自立した。その後、11世紀にアフリカから新興のイスラーム勢力であるムラービト朝がイベリア半島を支配、ムワッヒド朝が続いた。

カスティリヤ王国による奪還

 その間、半島北部から始まったレコンキスタが進み、1248年にはカスティリャ王国のフェルナンド3世がセビリャを奪回した。セビリャはイスラームの支配も長く、その文化伝統も根強かったので、トレド、コルドバなどと並んで、キリスト教文化とイスラーム文化、それに加えて古くから定住していたユダヤ人の文化が融合した独自の文化風土を作っていた。

ユダヤ教徒迫害

 ピレネー以北のヨーロッパでは十字軍運動とともにキリスト教信仰の純化が叫ばれ、異教徒に対する排撃の気運が強まったことによってユダヤ人迫害が起きていたが、イベリア半島でもレコンキスタの進行によってキリスト教による国家統一の機運が強まったことが、ユダヤ人迫害をもたらすことになった。そのような中、1348年には黒死病の流行が及んだこともあって社会不安が高り、さらに百年戦争の余波がカスティリヤ王国にも及んで王位継承をめぐる内乱となり、1369年に前王のペドロ1世を戦死させたトラスタマラ朝エンリケ2世が即位、前王がユダヤ教徒を重用したのに対し、厳しい反ユダヤ政策をとるようになった。
(引用)つぎの二、三十年間は、対ユダヤ人悪感情が高まった。それは殊にセヴィリアで激しかった。1391年6月6日、フェランド・マルティネス副司教の激しい反ユダヤ人説教によって事態は悪化し、たけり狂った暴徒たちがユダヤ人居住地区に押しよせた。町中に大虐殺の狂宴が拡がった。殺害されたユダヤ人は数千と推定され、圧力に屈して洗礼を受けたものを除いてほんの少数しか助からなかった。この反ユダヤ人暴動は、その夏から秋にかけてピレネー山脈からジブラルタル回教まで半島全体に野火の如く荒れ狂った。相次いで諸所で全ユダヤ人社会が絶滅された。……犠牲者の総数は七万人以上にのぼった。<セーシル=ロス『ユダヤ人の歴史』1961 みすず書房 p.159-159>
 そのため、多くのユダヤ人はやむなくユダヤ教の信仰を捨て、キリスト教に改宗した。改宗したユダヤ人の新キリスト教徒はコンベルソと言われた。

ユダヤ教徒追放令

 1479年スペイン王国が成立して、カトリックによる国家統一が進み、さらに1492年1月にイスラームの最後の拠点グラナダを陥落させレコンキスタが終わった。同じ1492年3月31日に、スペイン王国のイザベラ女王はユダヤ教徒追放令を出し、ユダヤ人に改宗か、出国かの最終決断を迫った。その結果、セビリャからも多くのユダヤ人が隣国ポルトガルなどに逃れ、国内に残った者はキリスト教に改宗した。

大航海時代の繁栄

 同時にスペイン王国両王は、ポルトガルに後れを取った海外進出に積極的に転じ、イザベラ女王が派遣したコロンブス艦隊は、パロス(セビリャの西方の海に面した港)から出港し1492年10月、新大陸を発見した。
 その後、スペイン王宮はマドリードと共にセビリャにも置かれ、スペインが派遣したマゼラン艦隊の出港地となるなど、大航海時代の拠点とされ、スペインが獲得した新大陸の富は、まずセビリャに持ち込まれることになるので大いに繁栄した。

現代のセビリャ

 1936年からのスペイン戦争では、アフリカに近いこともあって、共和政政府軍とフランコ反乱軍の激しい衝突がセルビアで展開された。
 セビリャは現在もスペインの大都市のひとつで、セメント、繊維、陶器などの産業も盛んであり、1992年のコロンブス・アメリカ到達500年の記念の年には、バルセロナ・オリンピックと共に、セビリャでは万国博が開催された。
 セビリャは、ベラスケスやムリリョなどの画家の出身地であること、ロッシーニの歌劇『セビリアの理髪師』の舞台になるなど、文化都市として知られているが、イスラーム教のモスクであった痕跡を強く残しているカトリックの「セビリャ大聖堂」を初めとする歴史的建造物の多い年であり、現在は世界遺産に登録されている。

世界遺産 セビリャ大聖堂

 セビリアの世界遺産は1987年に登録され、セビリア大聖堂・アルカサル(王宮)・インディアス古文書館の三施設によって構成されている。セビリャ大聖堂はローマのサンピエトロ大聖堂、ロンドンのセントポール大聖堂に次ぐ世界で三番目に大きな聖堂といわれている。もともとイスラーム教のモスクとして12世紀に造られた建物をカトリック聖堂に造り替えた。イスタンブルの聖ソフィア聖堂→アヤソフィアとは逆である。現在はコロンブスの巨大な空中の棺が観光の目玉になっている。 → ユネスコ世界遺産リスト Cathedral, Alcázar and Archivo de Indias in Seville

セビリャ大聖堂

もとはイスラーム教のモスク。セビリャがキリスト教徒の手に落ちて大聖堂に作る行かれたが、ミナレットだったヒラルダの塔や、アラベスク模様の壁、中庭など、モスクの様式が残っている。


ヒラルダの塔


大聖堂内部


コロンブスの墓


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