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ピューリタン

イングランドに於けるカルヴァン派の新教徒を言う。清教徒。イギリス国教会の主教制度などに反発したため弾圧され、1640年にピューリタン革命を起こし、クロムウェルに指導されて共和制を実現した。しかし、名誉革命で国教会体制が再建されると衰退した。

 宗教改革期のイギリス(厳密にはイングランド王国)において、エリザベス1世の時に確立したイギリス国教会のあり方に批判的な、カルヴァンの教えに忠実であったプロテスタント(新教徒)とをいう。彼らは国教会の中のカトリック的な残存物(例えば聖職者に白い聖職服を着せることなど)を一掃し、純粋化する(purification)ことを要求したので、ピューリタン Puritan 、清教徒という。彼ら特に国教会の主教制(国王を頂点とした聖職者の階層制)に対して反発した。 → イギリスの宗教各派

長老派と独立派

 国教会信徒も新教徒(プロテスタント)ではあるが、そのカトリックとの妥協的・中道的信仰に飽き足らないピューリタンは、国教会信徒以外の新教徒であることから非国教徒(ノンコンフォーミスト)と言われた。ピューリタンはイングランドに多かったが、スコットランドには同じくカルヴァン派から生まれた長老派(Presbyterian)が存在した。長老派はイギリス国王を教会の首長とすることは認めるが主教制に代わり長老制度をとるべきであると主張していた。それに対してピューリタンは国教会の内部からの改革を断念し、分離独立し、平等である教会員同士が会衆として集まり協力することを主張した独立派(Independency)といわれた。長老派と独立派はいずれの会派も、ジェントリ(新興地主層)、毛織物工業経営者、中小商人、ヨーマン(自営農民)などの中産階級に多かった。

ピューリタンの北米移住

 16世紀後半のエリザベス1世の時期にイギリス国教会体制が完成すると純粋なプロテスタントの信仰を求めるピューリタンは、「中道」的でカトリック的儀式や主教制をとる国教会に対する不満を強めていった。さらに、17世紀に入り、イギリスのステュアート朝の国王ジェームズ1世は「主教なくして国王なし」と称して国教会の主教制度を柱として王権を強化し、それに従わない聖職者を追放した。それに対して一部のピューリタンは信仰の自由を求め、1620年にピルグリム=ファーザーズとしてアメリカ新大陸にわたった。国内に残ったピューリタンも、絶対王政の下での国教会の強制に強い不満を募らせていった。

ピューリタン革命

 次のチャールズ1世は 1628年の議会の権利の請願を無視して議会を解散、その間、カンタベリー大主教ロードなどを側近として専制政治を行った。大主教ロードは国教会の立場ながらカトリックに近い儀式などを強要し、反発するピューリタンや長老派を厳しく弾圧した。しかし、国王の専制政治は財政困難から行き詰まり、ジェントリに新たな課税を課してさらに反発を強めた。
 国王と議会の対立は、ついに1642年に武力衝突に発展、国王軍と議会軍の内戦となった。このとき議会を構成したジェントリの多くがピューリタンであり、特に1649年、チャールズ1世を処刑し、イギリスに共和制を樹立したクロムウェルが熱心なピューリタンであったことから、この革命をピューリタン革命と呼んでいる。

審査法の制定

 革命を主導したクロムウェルが独裁政治を行って民心から離れ、王政復古となってチャールズ2世が即位し、カトリックに復帰する動きを示したため議会は1673年に審査法を制定して、カトリック教徒と並んで非国教徒もイギリスの公職に就けないと定めた。こうしてイギリスにおけるピューリタン信仰は再び社会的に認められなくなり、低迷の時代に入ることとなる。名誉革命後の1689年、寛容法が制定され、信仰の自由が認められたが、審査法は継続していたので、ピューリタンを含む非国教徒が公職には就けないという状態は、審査法の廃止される1828年まで続いた。

ピューリタン文学

 イギリスの17世紀後半、ピューリタン革命の時期に盛んになった、ピューリタン信仰を詠いあげた文学作品で、代表的なものにミルトンの『失楽園』(1667)やバンヤンの『天路歴程』(1678)がある。これらの作品は高い精神性と同時に、平易な文章で表され、近代イギリス文学のなかに重要な位置を占めている。

アメリカのピューリタン

 ピューリタンの新大陸への大規模な移住は1620年のピルグリム=ファーザーズのプリマス上陸に続き、1629年から1640年にかけて盛んになった。その時期にイギリスでの経済不振と伝染病の流行起こったことと、イギリス国教会からの激しい迫害が起こったことがその背景にあった。主にロンドン北東部のイーストアングリア(サフォーク、エセックス、ケンブリッジあたり)の人々で、彼らはアイルランド、オランダ、カリブ諸島などとともに、アメリカ大陸北東部のマサチューセッツなどに移住した。約2万1千人ほどのピューリタンが入植し、その地はニューイングランドといわれるようになり、後にマサチューセッツなどが13植民地の一部を構成すようになる。
(引用)救われる人と地獄に堕ちる人とは全能の神によって運命づけられている――ピューリタンはこのように信じていた。「最後の審判」を気長に待つかわりに、彼らは聖書に忠実な生活を送り、罪の意識と闘い、腐敗を根絶しようと努めてきたのだ。こうした信念から、ピューリタンは聖書の教えにそぐわない英国国教会の振る舞いを忌み嫌っていた。これは、腐敗や浪費にまみれた王室の批判へとつながっていった。もちろん権力側は、ピューリタンのこうした態度に敵対したのである。  彼らアメリカ北東部に移住したピューリタンの移住の目的は、たったひとつであった。「新天地に新たな宗教社会を建設すること」である。そこで神の意志に奉仕すると同時に、あらゆる誘惑から解放されることを願った。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.28>

Episode ボストン名物ベイクド・ビーンズ

 ピューリリタンの生活は厳格で、教会の日曜礼拝もどんなに寒くても暖をとることは決してなかった、ボストンでは今日でも有名なベイクド・ビーンズといった質素な豆料理を主食としていた。単調な色の衣服を身につけ、葬儀は埋葬のみ、墓は御影石で作る質素なものだった。すべての時間は「神から与えられたもの」なので無駄にせず、就寝時以外はすべて神への奉仕と考え、勤勉さが奨励された。<ジェームス・バーダマン『同上書』 p.20>

WASPの形成

 ピューリタンは、信仰だけでなく、実生活をいかに価値あるものにするか、ということにも強い関心を持っていた。現世での自らの職業を神から与えられた「天職」と考え、質素に勤勉に暮らすことが農民でも、商人でも、職人でも求められた。同時にそれによって得られた資産は、神に認められたものであって、利益を追求することも許されると考えた。その精神は、プロテスタントの源流の一人、カルヴァン予定説にさかのぼる。また、アメリカ大陸の北東部のニューイングランドがその後のアメリカ合衆国の産業社会の源流となっていくこととも結びつき、それを支えた社会の中核がイギリスからの移民である白人のプロテスタントであるというWASPの優位という見方が形成された。

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大木英夫
『ピューリタン』
2006 聖学院大学出版会

初刊は1968 中公新書。50年ぶりの再出版。いまもピューリタンを説明するのに欠かせない価値の高い本。イギリス、アメリカの近代精神の背景を理解する上でも有益であろう。