印刷 | 通常画面に戻る |

フランス東インド会社

1664年、ルイ14世時代にコルベールによって実質的に創始された。インドのコロマンデル地方のポンディシェリとベンガル地方のシャンデルナゴルを拠点にイギリスと対抗したが、1757年のプラッシーの戦いで敗れ、インド経営から後退、1796年に解散した。

 1520年代にルーアンの商人が仕立てたフランス船がマラバール海岸に到着したのが、フランスのインド進出の最初であったが、その後はイギリスやオランダが東インド会社を設立し、アジアとの貿易を開始したことと較べれば、順調ではなかった。1600年にはイギリス東インド会社1602年にはオランダ東インド会社が設立されたが、フランスの東インド会社の設立は、実質的には1664年ルイ14世の時代の財務長官コルベールの提唱によるものであった。
注意 フランス東インド会社の設立年代 例えば、山川出版社の世界史用語集では、1664年のコルベールのフランス東インド会社は「再建」とされていて、それより前の1604年にアンリ4世の勅許状によって設立されたのが最初、としている。しかし、その根拠はあきらかではなく、実態は分かっていない。実際にはこの段階にはインドとの貿易は行われず、その間のフランスのアジア交易の拠点とされたのはマダガスカル島であり、この島を中心としてインド洋に面したペルシアやインド、東南アジアと交易を行っていただけと思われる。

フランス東インド会社の設立と変遷

 実際にフランス東インド会社が創設されたのは、1664年に財務総監(大臣)コルベールルイ14世の勅許状を得てからである。この時創建された会社は「東インド会社」と命名され、コルベールは重商主義政策を推し進め、同年には南北アメリカ大陸との交易にあたる西インド会社(西洋会社)も設立している。ただし、1719年に東インド会社は、西インド会社およびアフリカの奴隷貿易を行うセネガル会社などと合体して、「インド会社」となった。従って東インド会社そのものは1664~1719年に存在したにすぎないが、一般にその後の時期も含めて「東インド会社」として説明されている。

コルベールの東インド会社創始

 1661年以来、フランスの国家財政を担当してきた大臣コルベールは、62年にルイ14世に対し「フランスがアジア交易の実利を手にすべきこと、イギリス人とオランダ人だけがそれを利用している現状を打破すること」を提案した。結果として、巨大な行政機関ともいうべき会社がつくられた。1200万リーヴル以上にものぼる巨大な資本の大部分は王やその親族、宮廷の貴族、コルベールのような大臣たちや官僚たちなどによって拠出された。会社は王の官僚である国務評定官によって運営された。<P=オドレール/羽田正訳『フランス東インド会社とポンディシェリ』2006 山川出版社 p.33>

フランスのインド進出

 フランスの本格的なインド進出は、1667年、フランソワ=カロン(この人はオランダ人で平戸のオランダ商館最後の館長だったが、後にフランスに仕えた)がインド西北部のスラット、ベンガルなどに商館を建設し、木綿(キャラコ)・胡椒などを輸入してからである。1674年にインドの東海岸(コロマンデル地方)のポンディシェリの土地を購入して要塞を築き、インドにおける中心拠点とした。また、ベンガル地方にはシャンデルナゴル、コロマンデル海岸のマスリパタムなどにも商館を設け、さらにインドへの中継基地としてインド洋上のモーリシャス諸島(フランス島)、レユニオン島(ブルボン島)を領有した。

フランス東インド会社の隆盛

 しかし、18世紀の初めには、フランス東インド会社がアジアに送った船は年に2~3隻で、それはイギリスの会社の半分、オランダの会社の10分の1にすぎず、イギリス・オランダに対抗するにはいたっていなかった。そこで、1719年に会社の組織や運営が根本的に見直され、会社の再編成が行われることによって発展することとなった。まず株は貴族の手から離れて銀行家や外国人が所有するようになり、株主の代表が会社の経営に参加するようになった。パリの会社経営本部には財務や航海、船舶艤装の専門家、会社の高級職員が取締役となり、現地のポンディシェリ総督と連絡を取りながら会社を運営するようになった。
 新規資本を導入し、会社が船団を組織することが可能になり、1720~30年にブルターニュの海岸に会社の新しい港ロリアン(l'Orient)を建設した。ロリアンの造船所には船の建造に必要な専門技術者、職人が集められ、木材、船体保護用のタール、ロープ用の麻はバルト海沿岸のハンブルク、リガ、シュティティン、グダニスクから運ばれ、それらの船は東洋の品物を積んで帰って行った。イングランドからは石炭・錫・鉛が、アイルランドからは塩漬け肉・バターとチーズ、アンダルシア(スペイン)からはオリーブ油・スペイン銀貨が運ばれてきた。ロリアンは会社の船の出港地となるとともに、ナントやボルドーなどの沿岸との貿易も盛んに行い、ワインなどが集積された。約4000人が会社に雇傭され、会社の船のフランス人乗員の航海技術はこの時期に飛躍的に向上、シャンデルナゴルではデュプレクスのように財産を築くものも現れた。<P=オドレール『前掲書』p.35-46>

英仏の抗争

 インド交易の主導権はポルトガルがにぎっていたが、17~18世紀は、オランダ・イギリス・フランスが激しく追い上げ、また抗争しあった時代だった。その中で次第にイギリスとフランスの優位が明らかとなり、コロマンデル地方ではイギリスのマドラスに対してポンディシェリが、ベンガルにおいてはイギリスのカルカッタに対してシャンデルナゴルが、それぞれ対抗拠点として設けられ、激しく競争した。
 18世紀半ばにはフランスのインド総督デュプレクスがポンディシェリを拠点に第1次と第2次のカーナティック戦争では、イギリスを圧倒する働きを見せたが、本国政府がデュプレクスの独断専行的な動きを非難して召喚すると、第3次、1758~61年の第3次カーナティック戦争ではクライヴに指揮されたイギリス東インド会社軍に敗れ、並行して戦われたベンガル地方での1757年のプラッシーの戦いでも、フランスはベンガル太守と結んだがイギリス東インド会社軍に敗れ、インドの主導権を失った。フランスはインドにおけるイギリス海軍との決戦には消極的で、東インド会社を充分保護しなかったのが敗因と考えられる。

フランス東インド会社の解散

 1763年のパリ条約で、フランスはポンディシェリとシャンデルナゴルの領有は回復したが、その他の権益はすべて放棄し、インドにおけるイギリスの覇権が確立した。その後も後発組であったフランス東インド会社はオランダ・イギリスの妨害も激しく、国内の商業資本の成長も十分でなかく弱小株主しか存在しなかったため資本が集まらずに経営が悪化し、1796年に解散した。<浅田実『東インド会社』講談社現代新書・P=オドレール/羽田正訳『フランス東インド会社とポンディシェリ』2006 山川出版社 などによる>
 なお、ポンディシェリ、シャンデルナゴルは、その後もフランス領として続いたが、第二次世界大戦後の1954年にともにインドに返還された。 → 8章 4節 東インド会社  オランダ東ンド会社  イギリス東ンド会社
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

浅田実
『東インド会社』
講談社現代新書

P=オドレール/羽田正訳
『フランス東インド会社
とポンディシェリ』
YAMAKAWA LECTURES
2006 山川出版社