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国際労働運動/インターナショナル

19世紀中ごろ、資本主義の急速な発展に対して、労働者による組織的、国際的な権利擁護の要求が高まり、1864年の第1インターナショナルなど、いくつかの国際組織が活動した。

 資本主義社会の形成とともに明確となってきた資本家と労働者の階級的対立の中で、イギリスで労働組合が結成され、資本家による搾取に対し労働者の権利、生活を守るための組織的な運動が始まった。19世紀の中ごろになると、高度に工業化され、大資本が国家権力と結んで各国経済を支配するようになると労働問題も深刻となり、国の枠を越えた広がりをみせるようになった。そのような状況の中から、まずヨーロッパの資本主義国の労働者の中に、国際的な連帯の必要が意識されるようになり、また社会主義運動の進展によって結成され始めた社会主義・共産主義政党も国際的な連帯を求めるようになっていった。これらの運動の中から数次にわたって「インターナショナル」といわれる国際組織が結成され、それは内部対立から解散・結成をくりかえしながら、19~20世紀の国際情勢にも大きな影響力を与えることとなった。
 その最初の指導者となったのはマルクスエンゲルスであり、1864年9月28日の第1インターナショナルの結成がその最初の高まりであった。その運動は常に内部的な思想、方針の対立を含んでいたので必ずしも順調ではなかったが、20世紀の国際政治にも大きな影響をあたる存在であった。また、ヨーロッパの社会主義・共産主義とは異なり、アメリカでは大企業に対抗する労働組合の運動が展開された。

主な労働運動の動き

 19世紀後半の国際的な労働運動とアメリカの労働運動の主なものをあげると次のようになる。
1848年
マルクスとエンゲルス『共産党宣言』発表:「万国の労働者、団結せよ!」と呼びかける。
1864年
第1インターナショナルの結成:最初の労働組合の国際連帯組織。マルクスらが指導。マルクスらの主流とバクーニンらのアナーキストとの対立が深刻化し、1872年に解散。
1886年
アメリカでメーデー始まる。5月1日が労働者の祭典として以後定着する。
 同  年
アメリカでアメリカ労働総同盟(AFL)結成:サミュエル=ゴンパースが指導。職業別の連合組織。
1889年
第2インターナショナルの結成:国際的な社会主義政党・労働組合の連帯組織。エンゲルスが指導的役割をになう。ドイツ社会民主党が主導。世界的工業化の中で組織を拡大したが、帝国主義段階での植民地問題などで対立。第一次世界大戦に当初反対したが、各国組織が祖国防衛戦争支持に転じたため1919年に解散。
1919年
第3インターナショナル(コミンテルン)の結成:ロシア革命後のレーニンの指導。各国の共産党は支部として活動。
 同  年
国際連盟の一機関として国際労働機関(ILO)が発足。
1935年
アメリカでワグナー法制定:全国労働関係法のこと。ニューディールの一環。団結権、団体交渉権を認める。
 同  年
アメリカの産業別組織会議(CIO)結成:38年にAFLから分離独立。未熟練労働者の全国組織。
1945年
世界労連(WFTU)結成:ソ連、東欧諸国の社会主義圏の労働組合国際組織。
1949年
国際自由労連(ICFTU)結成:西側諸国の労働組合国際組織。反共産主義を標榜。

社会主義と労働組合運動の関係

 19世紀末、資本主義下の工業社会化が急速に進み、ヨーロッパからアメリカ合衆国にその中心が移行していった。資本主義の地理的拡大とともに労働者も増加し、それとともに社会主義と労働組合運動の関係にも地域差が生じてきた。イギリスでは「労働組合の運動が労働者のすべての活動を統括して、社会主義をひろげる仕事にも一定の枠をはめていた」(労働組合主義)。ドイツでは、社会民主党(1890年改称)が社会主義者の戦略戦術にしたがって組合活動を指導した。ベルギーやスカンジナビア諸国では、社会主義的民主主義をかたちづくる労働者の三つの組織形態(政党、労働組合、協同組合)が混然一体をなしていた。フランスでは、組合運動と社会主義が最初は並行して発展したが、やがてどちらが労働者の支持をえるかという競争相手の関係になった。<アニー・クリジェル『インターナショナルの歴史』文庫クセジュ 白水社 p.35>

インターナショナル運動のあゆみと相違点

 国際労働運動のなかでもっとも重要だった1864年に結成された第1インターナショナルはパリ=コミューン後に分裂、活動を停止したが、その後、1889年に第2インターナショナルが生まれた。しかし、第一次世界大戦勃発ともにこの組織は崩壊した。その後、1919年には第3インターナショナル(コミンテルン)が登場し、重要な存在となった後に1943年に解散した。それに反対する勢力によって1938年には第4インターナショナルも結成されている。これら4つの「インターナショナル」は国際的な連帯によって労働者階級の解放をめざすという理念は底流として同じであるが、それぞれの時代的背景によって、その性格や動きには大きな違いがある。現代ではほとんど影響力を失っているが、19~20世紀に、国家の枠を越えた労働運動・社会主義運動が存在したことを十分に認識しておこう。そして、4つのインターナショナルの違いを正確に理解するとともに、なぜ現代には影響力を失っているのか。考えてみよう。
第1インターナショナル(1864~72)労働組合の国際連帯のための組織 この段階は、まだ社会主義・共産主義を目指す政治運動(社会主義運動)が本格化しておらず、ストライキなど資本家との闘争における資金の相互支援などが主な目的であった。マルクスは労働者解放のためには積極的な政治闘争が必要と主張したが、政治闘争を否定する労働組合主義やアナーキズムの支持勢力も多かった。
第2インターナショナル(1889~1919年)社会主義政党を主とした国際連帯のための組織 1889年7月、ドイツ社会民主党など、各国の社会主義・共産主義政党が加盟し、各国における支部を形成した。ドイツ社会民主党が主導権を握っていたが、各党はそれぞれ対等に協力し合う原則であったので、第一次世界大戦勃発に際し各国の利害の対立が生じると、組織を維持できず解散した。
第3インターナショナル=コミンテルン(1919~1943年)ソ連共産党を中心とした世界共産党組織 ロシア革命(第2次)を主導したレーニンによって首唱され、1919年3月2日に発足した国際共産主義運動の組織体で、モスクワのロシア共産党を本部とし、各国の共産党がその支部として活動する世界共産党という性格が強かった。当初は理念として世界革命を目指したが、ドイツ革命の失敗などからその路線は修正され、スターリン時代には各国の共産党をソ連共産党がコントロールする面が強まり、それに反発して独自路線をめざす党も現れた。スターリン路線は社会民主主義を資本主義を補完するものとして厳しく批判していたが、1930年代のファシズムの台頭を受けて1935年のコミンテルン第7回大会人民戦線路線に転換、その過程で大きな混乱も生じた。結局、第二次世界大戦でファシズムに対抗するためアメリカ・イギリスと提携する必要から、コミンテルンの解散に踏み切った。戦後の冷戦時代には、ソ連が東ヨーロッパ各国を統制する機関としてコミンフォルムを結成した。
第4インターナショナル(1938~)トロツキーの意志を継承し世界革命を目指す世界共産主義組織 なお、レーニン死後のソ連で、スターリンは世界革命を目指す路線を放棄し、一国社会主義革命路線に転換した。スターリンと対立したトロツキーは「左翼反対派」として排除されると、「第3インターナショナルは死んだ」としてそれに代わる国際社会主義連帯組織の結成をめざし、1938年に「第4インターナショナル」を発足させた。しかし、1940年、トロツキーは暗殺され、同調者は「トロツキスト」としてソ連当局から粛清されり、さらに第二次世界大戦の戦時下での激しい弾圧によって存続が困難となった。戦後もスターリニズムと資本主義に反対する国際組織として存続しているが、スターリン批判後はその評価などをめぐって分裂を繰り返している。現在も各国にさまざまな第4インター系の組織があるが、四分五裂状態で統一した国際連帯組織としての影響力は失っている。

参考 国際労働歌インターナショナル

 最近では滅多に聞かれなくなってしまったが、ある程度の年齢の人は「起て飢えたるものよ!いまぞ日は近かし・・・」と始まる「インターナショナル」の歌は耳に残っているにちがいない。戦後の日本の労働組合運動や歌声運動の中で盛んに歌われた「インターナショナル」は、パリ=コミューンに参加したポティエという人が作詞し、最初はラ=マルセイエーズに合わせて歌われていた。1888年にピエール=ドジェーテルが曲を付けて初演し、1896年にリールの労働者大会で歌われてから広がった。曲の権利をめぐっては裁判にもなったが、1922年にピエールが作曲者と確定され、フランス共産党大会でピエールの指揮の下で演奏された。「インターナショナル」の明解な曲想は世界中に広がり、1918年にはソヴィエト=ロシアの国歌とされ、スターリンが1944年に新国歌を制定するまでソ連国歌として用いられた。日本では1922年に小牧近江が『種蒔く人』で紹介、佐々木孝丸の訳詞がひろく歌われるようになった。<この記事はWikipedia インターナショナルの項 による。>
 国際労働歌・革命歌として広く歌われた「インターナショナル」は、パリ=コミューンでの第1インター解体の中から生まれ、第2インター期にフランスを中心に広く歌われるようになり、第3インター(コミンテルン)期にはソ連国歌となった、ということになる。なお、この曲を日本に紹介した小牧近江は、戦後の日本の最初となった鎌倉市の平和都市宣言に尽力し、その記念樹「平和の木」の銀杏は今も鎌倉市役所前に立っている。訳詞した佐々木孝丸はプロレタリア演劇の俳優・作家としても有名で、戦後は映画・TVでも渋い演技を見せていた。 → YouTube インターナショナル(ロシア語版)(背景に労働運動・革命のポスターが使われており、当時の高揚感を知ることが出来る。)
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書籍案内

アリー・クリジェル
『インターナショナルの歴史―1864-1943年』
1965 文庫クセジュ

刊行年は古いが、現在でも手軽に読めるインターナショナル運動の通史。