迎撃ミサイル(ABM)制限条約
デタントの進展する中、1972年に米ソ間で弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限で合意した。2001年、アメリカが離脱し2002年に失効した。弾道弾迎撃ミサイル制限条約、ABM制限条約、ABM条約とも言う。
1972年5月26日に、アメリカのニクソン大統領と、ソ連のブレジネフ書記長の間で締結された、弾道ミサイルの迎撃を目的とするミサイル(ABM=Anti-Ballistic Missaile)の開発・配備を制限した二国間の核兵器管理のための条約。同年10月3日に発効した。
1950年代に大陸間弾道ミサイル(ICBM)が出現すると、米ソは敵の弾道ミサイルが自国に到達する前に撃ち落とすための迎撃ミサイルの開発を競うようになった。これは米ソ両国を際限のない軍拡競争に駆り立てることになり、両国の負担が増大した。そこで両国は1972年5月に相互確証破壊(MAD)戦略に基づき、迎撃ミサイルの制限に合意した。これは同年の第1次戦略兵器制限交渉(SALT・Ⅰ)の合意と共に、70年代の緊張緩和(デタント)を象徴するものであり、また初めて核兵器に具体的な制限を加える画期となった。
ABM制限条約では、アメリカ・ソ連双方で、ミサイル防衛配備をそれまでの2ヵ所から1ヵ所に制限して、迎撃ミサイルは100基に制限することとなった。ソ連はモスクワを守るためにミサイル防衛を配備し、アメリカはノースダコタ州のICBM施設にセーフガードと呼ばれるシステムを置いて守ることにした(しかし高価な割には効果がないことが判明したため後に廃止された)。<W.ペリー/T.コリーナ『核のボタン』2020 朝日新聞社 p.204>
アメリカの違反 迎撃ミサイル制限条約の枠に縛られていたアメリカの軍需産業の中に、技術革新による高性能な防衛システム構築の要求が高まってきたことを受けたレーガンが、1983年、「戦略防衛構想」(SDI)(スターウォーズ構想ともいわれた)を発表した。それはアメリカ全土を防衛するミサイル防衛網を宇宙にまで拡大して配備する計画であったので、ソ連は強く反発し、米ソの信頼関係にひびが入った。
1985年にソ連で改革を始めたゴルバチョフ書記長は、同年ジュネーヴで初めてレーガンと会談し、核戦争の回避努力では基本合意したものの、翌1956年のレイキャビク首脳会談でゴルバチョフはアメリカのABM制限条約違反を非難、会談はそれ以上の進展なく、終了した。
ロシアのプーチンは、報復として第2次戦略兵器削減条約(STARTⅡ)(1993年合意)から離脱した。
アメリカは、2001年に9.11の同時多発テロに見舞われ、それ以前から強まっていたイスラーム原理主義系の過激武装集団によるテロに悩まされ、冷戦終結後の国家防衛戦略の柱を「テロとの戦争」と規定するようになった。ブッシュ(子)はブッシュ=ドクトリンを発表して、テロとの戦争では先制攻撃が必要であるという姿勢を採りイラク戦争に踏み切った。この一連の動きは、アメリカの単独行動主義(ユニラテラリズム)への転換と見られている。
1950年代に大陸間弾道ミサイル(ICBM)が出現すると、米ソは敵の弾道ミサイルが自国に到達する前に撃ち落とすための迎撃ミサイルの開発を競うようになった。これは米ソ両国を際限のない軍拡競争に駆り立てることになり、両国の負担が増大した。そこで両国は1972年5月に相互確証破壊(MAD)戦略に基づき、迎撃ミサイルの制限に合意した。これは同年の第1次戦略兵器制限交渉(SALT・Ⅰ)の合意と共に、70年代の緊張緩和(デタント)を象徴するものであり、また初めて核兵器に具体的な制限を加える画期となった。
迎撃ミサイルの制限
1962年のキューバ危機の回避後、米ソ両国は核兵器開発競争を沈静化させる必要を自覚し、60年代から70年代にかけて戦略兵器制限交渉(SALT)を継続した。そのなかで、核の攻撃力を高めれば、敵国は防御力の強化につとめ、次の段階ではさらに攻撃力を強めなければならなくなることに気づいた。核戦争での防御とは、大陸間弾頭ミサイルに対する迎撃ミサイルである。米ソ両国は事実、迎撃ミサイルの性能の向上とその生産に力を入れていた。そこから核戦争の拡大を避けるためには攻撃用の戦略兵器(ICBM。SLBM)だけでなく迎撃ミサイルを制限しなければ、全体の制限にはならないことで米ソの交渉者は合意した。ABM制限条約では、アメリカ・ソ連双方で、ミサイル防衛配備をそれまでの2ヵ所から1ヵ所に制限して、迎撃ミサイルは100基に制限することとなった。ソ連はモスクワを守るためにミサイル防衛を配備し、アメリカはノースダコタ州のICBM施設にセーフガードと呼ばれるシステムを置いて守ることにした(しかし高価な割には効果がないことが判明したため後に廃止された)。<W.ペリー/T.コリーナ『核のボタン』2020 朝日新聞社 p.204>
アメリカの違反 迎撃ミサイル制限条約の枠に縛られていたアメリカの軍需産業の中に、技術革新による高性能な防衛システム構築の要求が高まってきたことを受けたレーガンが、1983年、「戦略防衛構想」(SDI)(スターウォーズ構想ともいわれた)を発表した。それはアメリカ全土を防衛するミサイル防衛網を宇宙にまで拡大して配備する計画であったので、ソ連は強く反発し、米ソの信頼関係にひびが入った。
1985年にソ連で改革を始めたゴルバチョフ書記長は、同年ジュネーヴで初めてレーガンと会談し、核戦争の回避努力では基本合意したものの、翌1956年のレイキャビク首脳会談でゴルバチョフはアメリカのABM制限条約違反を非難、会談はそれ以上の進展なく、終了した。
ABM制限条約の失効
2001年12月、アメリカのブッシュ(子)大統領はABM条約からの一方的離脱宣言をロシアに通告した。理由はテロリストやならず者国家の脅威からアメリカを守るため、というものである。ならず者国家とは、核開発を進める北朝鮮と、その疑惑が強いイランのことである。翌2002年6月13日、同条約は失効した。<岩波小辞典『現代の戦争』2002 p.240>ロシアのプーチンは、報復として第2次戦略兵器削減条約(STARTⅡ)(1993年合意)から離脱した。
アメリカは、2001年に9.11の同時多発テロに見舞われ、それ以前から強まっていたイスラーム原理主義系の過激武装集団によるテロに悩まされ、冷戦終結後の国家防衛戦略の柱を「テロとの戦争」と規定するようになった。ブッシュ(子)はブッシュ=ドクトリンを発表して、テロとの戦争では先制攻撃が必要であるという姿勢を採りイラク戦争に踏み切った。この一連の動きは、アメリカの単独行動主義(ユニラテラリズム)への転換と見られている。