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第2章1節 インドの古典文明

★★ インドの仏教 

2009 中央大学(法・国際企業関係法)

【問】つぎの文章(A~C)は、古代インドにおける仏教の歴史について述べたものである。よく読んで、下記の設問に答えなさい。なお、漢字は正確に書くこと。

A.世界の3大宗教のひとつと称される仏教は、(  1  )族のカピラ国の王子ガウタマ=シッダールタの教説に基づくものである。王子が生まれた時代のインドには、支配的な宗教として、すでにバラモン教が存在していた。バラモン教はイラン高原からインドの地へ侵入して、先住民族を征服したアーリヤ人の社会のなかで誕生した宗教である。バラモンとは、(a)ヴァルナ制の最上位に当たる司祭階層の名称であり、そしてバラモン教とは自然現象のうちにひそむ力を、太陽神・火神・雷神などと神格化して崇拝する宗教だった。仏教が登場する以前のインドの社会において、前6世紀ごろまで何世紀にもおよんだ時代を、このバラモン教の聖典の名にちなんで(  2  )時代と呼ぶ。
 のちに仏教として体系化されていくガウタマ=シッダールタの新しい教えはこの(b)バラモン教に対する批判という側面をもっていた。バラモン教にとって重要だった複雑な祭式と動物の供犠を、さらにはバラモン教の根底にあるヴァルナ制をガウタマ=シッダールタは否定し、すべての人の平等、すべての生き物への慈悲を唱えた。より具体的には、正見・正思・正語などを含む教えである(  3  )の実践と、生老病死からの脱却を説いた。この教えはおもに武士や貴族の階級の支持を獲得して、(  4  )川の中流域に栄えたマガダ国に保護された。また前6世紀には、極端な不殺生主義を唱え、そして仏教と同様にヴァルナ制を否定する宗教(c)ジャイナ教も誕生しこちらは商人階級に多くの支持者を見出した。
B.インド最初の統一王朝マウリヤ朝は前3世紀中ごろ第3代アショーカ王のときに最盛期を迎える。アショーカ王は即位後8年に、デカン東北部の(  5  )国を征服したさい多くの犠牲者を出したことから、仏教に帰依するようになった。王は各地に、仏舎利を納める建造物(  6  )を建立し、仏教の保護と布教にも努めた。とりわけ、王子マヒンダを遣わしたという伝説もあるスリランカへの布教は大きな成功をおさめた。これ以降、この地に伝えられた上座部仏教と呼ばれる部派は、東南アジア方面へ伝わっていき今日に至っているが、その伝達経路から南伝仏教とも呼ばれている。
 マウリヤ朝はアショーカ王の没後には弱体化し、前180年ごろには滅亡する。その後、西北インドには、ギリシア系の王国(  7  )が進出し、ヘレニズム文化を伝えた。つづいて(  8  )族というイラン系遊牧民が侵入し、紀元後1世紀になると、新たにこの地に侵入してきたクシャーナ族による王朝が成立した。2世紀中ごろクシャーナ朝の最盛期を築いたカニシカ王は仏教にたいして手厚い保護をおこなった。しかし、この時代の仏教には、アショーカ王の時代のものとくらべて大きな2つの相違点が存在している。第1に、クシャーナ朝で主流となったのは(d)大乗仏教と呼ばれる新しい仏教だった。大乗とは「大きな乗り物Jという意味であり、この新しい仏教は、修行による自己救済にとどまらず、(  9  )信仰を中心として、すべての人間の救済を目ざすものだった。第2にヘレニズム文化の影響から、さかんに仏像が造られ、信仰されるようになった。このギリシア的要素の濃い仏教美術はガンダーラ美術と称される。そして、このような新しい仏教は、その美術とともに、中央アジアを経由して中国や日本にまで伝えられたためスリランカ経由の仏教と対比して北伝仏教と呼ばれている。
C.クシャーナ朝は3世紀には滅びるが、4世紀にはグプタ朝が新たに成立した。このグプタ朝時代のもっとも重要な出来事のひとつとしては(e)ヒンドゥー教がインドの社会に定着したことをあげなければならないが、しかし、この時代に仏教はただちに衰退したわけではない。まず仏教美術の領域では、ギリシアの影響を脱した、優美なグプタ様式と呼ばれる純インド風の芸術が出現し、この時代はインド古典文化の黄金時代とも称される。また仏教の教理の研究もさかんにおこなわれていた。グプタ朝最盛期の王チャンドラグプタ2世の時代には(f)法顕がインドを訪れている。5世紀にはナーランダー僧院が建立されて、仏教研究の中心地として発達した。グプタ朝そのものは、6世紀の半ばには、騎馬遊牧民(  10  )の侵入によって衰微し滅びることになるが、ナーランダー僧院はその後も存続し、7世紀にインドを訪れた玄奘や(g)義浄もこの地で学んだ。
 そして7世紀後半には大乗仏教の一流派として(  11  )が成立した。この呪術的で、神秘的な色彩の濃い仏教のうちにはヒンドゥー教からの影響を見ることもできるが、この流派はのちに唐を経由して、9世紀に最澄と空海によって日本にも本格的に伝えられることになる。しかし、こうした繁栄ののち、仏教は急速にインドの地では衰微していく。7世紀ころから、南インドでは、仏教やジャイナ教を否定し、ヒンドゥー教の神々への絶対的な帰依を唱える(  12  )運動と呼ばれる宗教活動がさかんになった。農民社会のなかに定着できなかった仏教とは異なり、ヒンドゥー教は確実にインドの民衆のあいだに定着していったのである。仏教は、 8世紀から12世紀のあいだべンガル地方を支配した(  13  )朝のもとで保護されて、最後の繁栄をみせるが、その後はインドでは衰え、影響力を失った。
設問
空欄(1 ~13)に入るもっとも適切な語句を答えなさい。
下線部(a)について。ヴァルナは、アーリヤ人が定住した当初、 4つの基本的身分によって構成されていたが、バラモン以下の残りの3つを、身分の高い順に答えなさい。
下線部(b)について。この時代、バラモン教に対しては内部からの改革運動も発生した。この改革運動に関して述べた記述のうち正しいものはどれか。1つ選んで記号で答えなさい。
  あ.
カルマによって決定されている輪廻からの解脱を説いた。
  い.
この世界をアフラ=マズダとアーリマンとの闘争であると説明した。
  う.
仏教やジャイナ教に対抗して、祭式至上主義の徹底を目指した。
  え.
ブラフマンとアートマンを主神として崇めることを説いた。
  お.
運動の中心的役割を果たした人物の名前からウパニシャツド哲学と呼ばれている。
下線部(c)について。この宗教の開祖は誰か。その名前を答えなさい。
下線部(d)について。『中論』を著して、大乗仏教の理論の確立に寄与した人物は誰か。その名前を答えなさい。
下線部(e)について。ヒンドゥー教に関して述べた記述のうち正しいものはどれか。1つ選んで記号で答えなさい。
  あ.
ヒンドゥー教の戒律集マヌ法典はチャンドラグプタ2世の命により編纂された。
  い.
シヴァ・ヴイシュヌ・ブラフマーを3大主神とする多神教だった。
  う.
ジャワ島のシャイレンドラ朝はヒンドゥー教の王国だった。
  え.
中国では祅教と呼ばれ、寺院も建設された。
  お.
マハーバーラタjはヒンドゥー教の開祖の生涯を描いた叙事詩である。
下線部(f)について。法顕は中国の何という王朝の僧か。その王朝名を答えなさい。
下線部(g)について。義浄が残した旅行記を何というか。その題名を答えなさい。
 

解 答

シャカ ヴェーダ 八正道 ガンジス カリンガ
10
ストゥーパ バクトリア サカ 菩薩 エフタル
11 12 13
密教 バクティ パーラ

設問2~8

クシャトリヤ  ヴァイシャ  シュードラ  あ  ヴァルダマーナ
ナーガルジュナ(竜樹)  い  東晋 南海寄帰内法伝

解 説