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都護府

中国の漢、後漢、唐で西域などの征服地に置かれた辺境警備と占領地行政を兼ねた地方官。唐では六つの都護府が置かれたが、次第に有名無実化した。

 漢が前59年に西域を統治するために置いた西域都護が始まりで、その後、後漢では光武帝の時、班超を派遣して亀茲(クチャ)に都護府を設置した。

唐の六都護府

 は帰属した異民族の地域に、六つの都護府を置き、都護には中央から派遣し、その下の都督、州の刺史には現地の族長を任命した。このような現地の異民族に一定の地位を与えて支配する政策を羈縻政策という。唐の六都護府は、太宗の時に安東、安西、安南、安北、単于、北庭の六ヶ所に置かれ、その下に鎭戎が置かれて辺境防備に当たった。唐中期以降は、府兵制の崩壊に伴い、辺境の防備は都護府に代わり節度使(藩鎮)が管轄するようになる。なお、都護府の名称は変更されたことも多く一定ではない。
唐の六都護府は次のものを言う。
安東都護府 朝鮮および東北地方の統治のため、高句麗を滅ぼした後、平壌に設置された。後に朝鮮半島で新羅が自立すると、遼陽に移った。安史の乱で廃止された。
安西都護府 西域経営のため、トゥルファンの高昌に置かれた。後に亀茲(クチャ)に移る。亀茲に加えて于闐(ホータン)疏勒(カシュガル)・焉耆(えんき、カラシャフル)を安西四鎮といわれ都護府が管轄した。しかし、790年、吐蕃に占領された。
安南都護府< 北部ベトナムハノイに置かれた。9世紀には南詔に占領され、さらにベトナムに大越国が成立して滅んだ。なお、遣唐使として唐にわたり、日本に帰れなくなって唐朝に使えた阿倍仲麻呂は、この安南都護として赴任した(後に安南節度使となる)。
安北都護府 外モンゴルの統治のために設けられた。682年、再び有力となった東突厥に押されて、陰山方面に移動した。
単于都護府 内モンゴルの統治のために設けられた。唐に服属したトルコ系の東突厥がその支配に従っていた。しかし、682年に突厥第二帝国として自立し、単于都護府は実態がなくなった。
北庭都護府 中国西北部、現在の新疆ウイグル自治区に当たるジュンガリアの統治のために置かれた。790年、吐蕃に占領された。
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