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スーフィー

イスラーム神秘主義(スーフィズム)の修行者。神との一体化を求めて修行し、イスラーム教布教につとめた。その指導者を聖者として崇拝するいくつかの神秘主義教団が生まれた。

 ムハンマドの創始した、アッラーへの絶対服従を説くイスラーム教の教えが西アジアに広く浸透すると、その教義や日常の信仰生活の規範をコーランとハディースに求めるイスラーム法学者ウラマーの権威が高まっていった。その論議は次第に律法主義、形式主義になり、民衆の現世的な欲求から離れていく傾向が出てきた。そのような状況に飽きたらず、神との一体感を求めて禁欲と苦行を重ねる人々が現れた。彼らがスーフィーといわれ、その思想や行動がスーフィズム(神秘主義)と言われるようになった。

スーフィーの意味

 スーフィーという言葉はアラビア語で羊毛を意味する「スーフ」に由来する。初期のイスラーム修道者は粗末な羊毛の衣服を身につけ、そのまま贅沢と世事を拒否することを意味していた。イスラームが中東に広がっていったとき、キリスト教の修道士の習俗を真似たのかも知れない。
 この神秘主義は、スンナ派・シーア派を越えた動きであり、宗派ではない。神への絶対帰依をめざす修道者であるスーフィーは、世俗から離れて厳しい修行と神秘的な儀式を執り行っていたので、はじめは少数ではあったが、その弟子や信奉者が増えると、尋常ではない精神力を持った聖人としてあがめられるようになった。10世紀のはじめには、各地に「スーフィー修養所」(イランではハーンガー、トルコではテッケ、アラブではリバートあるいはザーウィヤと言われた)が設けられ、神秘主義に精通した者が教育や指導に当たるようになった。<M.S.ゴードン/奥西俊介訳『イスラム教』1994 青土社>

スーフィーの活動

 8世紀ごろのイラクのクーファに始まったようだが、9世紀ごろから都市のウラマーにもスーフィーとなるものの現れ、10世紀ごろにはイラクを中心にイスラーム世界に広がった。特に、理屈ではく感覚に訴える教えは大衆に広く受け入れられるようになり、またアラブ人以外にイスラーム教が広がっていく上でも、スーフィーの活動は大きな導因となった。スーフィーの思想や活動は、当初は保守的なスンナ派のウラマーたちに非難されていたが、11世紀末のセルジューク朝で高名なウラマーであったガザーリーがスーフィズムとの融合を説き、広く認められるようになった。イランではスーフィーを托鉢を意味するデルヴィーシュ(またはダルヴィシュ)ともいっている。

スーフィズム教団と聖者崇拝

 初期のスーフィーは個人的な活動であったが、次第に共通の修行目標を持つものが集団を作るようになり、指導者を中心に教団(タリーカ)が組織されていった。それにともなって教団の指導者は次第に神秘化され、聖者として崇拝されるようになった。そのような聖者崇拝はイスラーム世界各地に広がり、聖者となったスーフィーの墓所は聖地として礼拝され、巡礼の対象となっていった。そのような神秘主義教団は12世紀から19世紀まで多数現れたが、スンナ派ウラマーに近い穏健な教団としてはカーディリー教団やインドのスフラワルディー教団、オスマン帝国のメヴレヴィー教団(舞踏を通じて神との一体化を求める舞踏教団)などがあり、それに対して急進的で政治的な主張もする教団としてはエジプトのバイユーミー教団、インドのチシュティー教団、リビアのサヌーシー教団、アフリカのティジャーニー教団などがある。また、イランのサファヴィー教団のように国家権力を樹立してサファヴィー朝を建国した教団もある。<以上、主として平凡社『イスラム事典』のスーフィー、タリーカの項による>

スーフィーに対する批判

 しかし、このようなスーフィーの活動と聖者崇拝に対して、それは本来のイスラーム教のムハンマドの教えから離れてしまっているという批判が18世紀中頃、アラビアから起こった。それがイブン=アブドゥル=ワッハーブが始めたワッハーブ派の運動であった。彼らのイスラーム改革運動は、トルコ人やイラン人に奪われたイスラーム教の主体であったアラブ人の本来の信仰を取り戻そうというアラブ民族主義運動にも結びつき、オスマン帝国に対するアラブ人の独立運動の精神的背景となり、それが現在では西欧文明の政治的、経済的、文化的侵略に対してイスラーム教徒として抵抗しようというイスラーム原理主義につながっていくこととなる。

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日本イスラム協会他編
『イスラム事典』
1982 平凡社

M.S.ゴードン/奥西俊介訳
『イスラム教』
1994 青土社