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太平洋

世界で最も広大な大洋。ヨーロッパ人では1513年にバルボアが発見し、1519年にマゼランが初めて横断した。マゼランが「平和の海」の意味で太平洋と名づけた。

 大航海時代のさなか、1513年にスペイン人のバルボアはパナマ地峡を横断して、初めてその西に広大な海が広がっているのを見た。バルボアはこの海を「南の海」と命名し、海岸でスペインの領有を宣言した。南の海と名づけたのは、バルボアが横断したパナマ地峡の部分はほぼ東西に走っていたので、陸地から見て海が南に位置していたからである。この呼び方がしばらくの間、ヨーロッパ人たちの間で用いられた。
 それより前、イタリア人アメリゴ=ヴェスプッチは1503年に、自分が探検したのは「新大陸」に違いないと主張し、それを支持したドイツ人ヴァルトゼーミュラーが1507年に制作した世界図ではこの新大陸に「アメリカ大陸」という名を付けていたが、その大陸の西はどのようにアジアとつながっているかは未知であったので、ぼかすしかほかはなかった。<以下、増田義郎『太平洋―開かれた海の歴史』2004 集英社新書 による>

ポルトガルとスペインの競争

 さらにバルボアの太平洋発見の前年、1512年にはポルトガル人は東廻りで香料の産地モルッカ諸島に到達し、スペインは遅れをとっていた。両国は1494年にトルデシリャス条約を締結し、スペインは南米のブラジルを通る南北の子午線の西側を獲得していたが、条約ではその裏側のアジアの境界には言及していなかった。スペインは当然自分たちの領分だと思っていたモルッカ諸島にポルトガル人が先に到達したので、大いに焦り、西回りで到達する必要に迫られた。そのためには新大陸の中にアジアに抜けることのできる海峡を見つけ出さなければならなかった。

マゼランの太平洋横断

 そこで実行されたのがマゼラン船団による西回り航路の開拓であった。ポルトガル人であったマゼランは東廻りでモルッカ諸島に行ったこともあり、西回りでも自信を持ち、スペインカルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)を説得、1519年8月にセビリャを出帆した。
 1520年10月21日、大陸の南端に海峡を発見、38日かかってそれを通過し、11月28日、はじめて大会の中に乗り出した。この海峡は後にマゼラン海峡と名づけられた。マゼランは当初、大陸はインディアス(アジア大陸)から突き出た大きな半島と考え、この海は「大きな湾」であり、香料諸島はその中にあるだろう想像していた。そこで陸地に沿ってしばらく北上すれば湾曲していてそれに沿っていけばモルッカに到達すると考えていたが、陸地はいつまで経っても湾曲せず、やむなく北西に進路を変えてた。その結果、大海を三ヶ月にわたって航海し、グァムに到着するまで約4ヶ月の苦しい航海であったが、その間、嵐には一度もあわなかった。そこでマゼランはこの海を、ラテン語で Mare Pacificum (「平穏な海」の意味)と名付けた。ここから英語で Pacific Ocean と言われるようになり、それを日本語訳したのが「太平洋」である。なお、大西洋は Atrantic Ocean という。
 マゼラン船団は1521年3月に太平洋の西端のフィリピンに到達したが、彼自身は翌月、セブ島で現地の首領ラプラプによって殺され、遺された船団が11月に目的のモルッカ諸島に入った。

サラゴサ条約

 マゼラン船団の太平洋横断は大航海時代を飾る華々しい成功であったが、スペインはモルッカ諸島に権利を有することには失敗した。それは太平洋を西回りで渡ることはできても、東廻りでアメリカ大陸に帰ることが当時の航海知識と技術では困難だったからである。何度か太平洋に東廻り横断に失敗したスペインはモルッカ諸島を諦める。それが1529年サラゴサ条約である。その結果、スペインの関心はフィリピンに移る。

大圏航路の発見

 スペイン国王フェリペ2世はメキシコ副王にフィリピン諸島殖民のための船隊派遣を命じ、1564年にレガスピを総指揮官とする艦隊が派遣された。翌年2月にフリピンに到着したレガスピはフィリピンの領有を宣言した。この艦隊に加わっていたウルダネーダは、メキシコへ帰る艦隊の航路の検討をまかされ、6月1日にサン・パブロ号というガレオン船でセブ島を出帆し、思い切った高緯度に上って日本近海から西に進んだ。10月8日にアカプルコに到着、2万キロを130日で走破することに成功した。これが黒潮に乗って日本近海まで北上し、北緯40度あたりの偏西風をとらえて東に向かう、しかも大圏コースで距離的に最も短いコースであった。このコースは《ウルダネーダの道》と呼ばれ、これによってスペインは、アカプルコとマニラを、行きはほぼ赤道に並行して西に向かう卓越風に乗って航行し、帰りは黒潮と偏西風を利用して大圏コースで帰るという往復コースを「発見」し、ガレオン貿易とフィリピン植民地支配を展開することとなる。

太平洋の地域区分

 太平洋諸島、つまりオーストラリア大陸を除くオセアニアは伝統的に三地域に分けられる。
  • メラネシア(黒い島々、の意味)…… ニューギニア・ビスマルク諸島・フィジー・ニューカレドニアなど
  • ミクロネシア(小さい島々、の意味)…… マリアナ諸島(グァム、サイパン)、カロリン諸島、パラオ諸島など
  • ポリネシア(多くの島々、の意味)…… ハワイ、ニュージーランド、イースター島を結ぶ三角形内の島々(タヒチ、サモア、トンガなど)
 これは19世紀前半に太平洋を探検したフランス人デュモン=デュルヴィルが分けたものを継承している。
 それより前、1768~1780年にかけてイギリス人クックが三度にわたって探険し、海図制作と自然や天然資源の探索を行った。

注意 太平洋戦争という矛盾 1941年9月7日、日本軍による真珠湾攻撃から始まった日米間の戦争は「太平洋戦争」といわれる。誰しもその戦争の名を口にするが、それは「平和な海」戦争、という自己矛盾した名称であったことに気付かないわけにはいかない。 → 南洋諸島
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書籍案内

増田義郎
『太平洋―開かれた海の歴史』
2006 集英社新書