ティプー=スルタン
18世紀末、イギリスの植民地化に抵抗して戦ったマイソール王国の国王。

ティプー=スルタン(1753-1799)
中央公論社『世界の歴史』14 p.270
マイソール王国
彼は若い頃から敵国への人質になるなど苦労を重ね、マイソール国王となってからはイギリスとの戦争を継続しながら、それに対抗するためにはインドで分立している勢力の一致協力と、何よりも産業や経済、軍政の近代化が必要だと気がついていた。またイギリスを打倒するためには、広く国際政治を見ることも必要であると認識し、イスラーム世界の中心勢力であるオスマン帝国や、イギリスと対立しているフランスとの同盟を模索して使節を派遣している。しかし、オスマン帝国は北方からのロシアの脅威にさらされているため、イギリスと結ぶ必要があり、ティプー=スルタンの要請には応えなかった。またフランスのルイ16世は革命勃発直前で、その要請に応える余裕はなく、この外交プランはいずれも成果を上げることはできなかった。イギリスと戦い敗れる
国際的な孤立、インド内部のヒンドゥー教国やヒンドゥー教徒の民衆からの支持がなくなっていくなかで、ティプー=スルタンはなおもイギリス打倒の機会を探るが、その間イギリスもベンガル地方での徴税権獲得などを通じて植民地経営を確立させ、またその範囲を広げようとマイソール王国への圧迫を強めてきた。そうして第3次マイソール戦争(1790~92年)が起こり、マイソール王国はイギリス軍、マラーター同盟軍などに攻撃されて敗北し、ティプー=スルタンは息子二人を人質に取られるなど屈辱的講和を押しつけられた。フランス革命が進行してイギリスとフランスの対立が再び深刻になると、ティプー=スルタンはフランス共和国との提携を模索する。ナポレオンの登場でそれが実現しそうとなると、イギリスはマイソール王国をたたく必要に迫られ、1799年に第4次マイソール戦争をしかけ、ついにティプー=スルタンは敗れて首都スリランガパトラム城に追いつめられ、戦死した。Episode マイソールの虎 ティプー=スルタン

中央公論社『世界の歴史』14 p.271