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フランス社会党/社会党/統一社会党

1905年に結成されたフランスの社会主義政党。第2インターナショナルに加盟してマルクス主義を掲げた。1920年に共産党と分離、社会民主主義政党として歩み、1935年には党首ブルムが人民戦線内閣を組織。第二次世界大戦後、1980年代~95年までミッテラン政権が続いた。

 1905年4月にフランスで結成された、第2インターナショナルに参加するマルクス主義政党。正式名は「労働者インターナショナル=フランス支部」(SFIO)で、単に社会党というのが正しく、あるいは統一社会党とも言われる。厳密には「フランス社会党」という党名ではないが、一般に通用している。社会党はマルクス主義を掲げる社会主義政党である。クレマンソー急進社会党は社会党を名乗るが社会主義政党ではなく、共和政治と私有財産制度を守り、反教会、反共産主義を掲げる中道右派の政党であるので注意すること。

社会党の結成

 その前身は、1901年にそれぞれ成立したゲードの指導するフランス国社会党と、ジャン=ジョレスの指導するフランス社会党であった。前者は革命の実行を志向し、後者は穏健な改良主義をとっていた。1904年にアムステルダムで開催された第2インターナショナルはフランスの社会主義運動の統一を指導することとなり、それに従って1905年にマルクス主義とそれに近い党派を統一して「統一社会党」が結成された。サンディカリスム(労働組合主義)の勢力は参加しなかった。結成の中心人物はジャン=ジョレスであった。
 そのころフランスの第三共和政ドレフュス事件の危機を乗り切り、国家主義・復古主義の潮流をおしとどめる状況となっていた。フランス社会党はブルジョワ政党の急進社会党と協力して、1905年に画期的な政教分離法を成立させ、カトリック教会と国家を分離させる原則(ライシテ)を実現させた。

ジャン=ジョレスの暗殺

 第一次世界大戦前の国際危機に際しては率先して反戦運動を展開したが、開戦直前の1914年にジャン=ジョレスが右翼・国粋主義者に暗殺された。大戦が始まると、第2インターナショナル加盟の各国の社会主義政党は次々と自国の戦争参加を支持するようになり、事実上解体した。

共産党との分裂

 第一次世界大戦中のロシア革命で社会主義国ソ連が成立したことは、ヨーロッパ各国の社会主義運動に大きな刺激となった。特に1919年、レーニンが主導してコミンテルン(第三インターナショナル)が設立され、各国にもボリシェヴィズムに基づいた革命政党の結成する指導がなされ、それはフランス社会党にも及んだ。1920年12月、社会党内の多数派である左派はコミンテルンに加盟することを決議、コミンテルン支部として活動することになったが、少数派の右派はそれに反対した。結局多数派が離脱してフランス共産党を結成、少数派が残って社会党を名乗り、両者は激しい非難合戦を展開する。共産党は社会党を反共産主義勢力として攻撃し、社会党も共産党をソ連の手先だとして非難、社会主義陣営は分裂することとなった。社会党は暴力革命に反対し、議会制民主主義の枠内での権力獲得を目指した。

人民戦線の結成

 1929年の世界恐慌を契機として世界的にファシズムが台頭、特にヒトラーのナチス=ドイツはヴェルサイユ体制打破を唱え再軍備・ラインラント進駐を強行、フランスにとって大きな脅威となってきた。同時にフランス国内でも、第三共和政の政党政治の腐敗と混乱が進行し、次第に議会制民主主義を否定して全体主義国家体制樹立を目指す右派、ファシズム勢力が台頭してきた。
 社会党自体も右派と左派が内部対立を繰り返していたが、ファシズムの台頭という情勢に対して共同戦線を結成する機運も次第に強まり、1935年にはコミンテルン第7回大会が社会民主主義との闘争を棚上げして幅広い反ファシズム人民戦線を結成する戦術に転換し、フランス共産党もそれに従ったため、社会党と共産党、さらに急進社会党も加わって1935年7月14日フランス人民戦線を結成した。それによって各党の選挙協力体制が成立し、同年の選挙で人民戦線が勝利して、首相に社会党の党首レオン=ブルムが就任した。

人民戦線内閣とその崩壊

 フランス人民戦線のブルム内閣は、公約した週休5日制などの社会改革を実現し、ファシズム政党を解散させるなど、成果を上げたが、ブルジョワ共和派である急進社会党と閣外協力にとどまった共産党との対立は次第に明確になっていった。1936年に隣国のスペイン人民戦線政府に対する軍部の反乱が開始され、ドイツ・イタリアのファシズム国家が公然と反乱を支援すると、レオン=ブルム首相はただちに共和国政府に対する支援を決定した。しかし、スペイン内戦が革命的様相を呈してくるのに従い、フランス内の資本家層や保守派がその支援に反対し、ブルム内閣は閣内対立に悩まされることになる。また国際的にもソ連が共和国政府を積極的に支援していることを共産勢力の西欧への拡大として警戒したイギリスが支援を拒否、結局ブルム内閣も不干渉に転じることになる。こうしてスペイン支援をめぐって人民戦線内閣は暗礁に乗り上げ、ブルムは辞任に追い込まれた。

第二次世界大戦

 人民戦線内閣に替わって登場した急進社会党のダラディエ内閣は、イギリスのネヴィル=チェンバレンとともにヒトラーに対する宥和政策を進め、ミュンヘン会談でナチス=ドイツのチェコスロバキア進駐を承認した。これは結局、ヒトラーの全面的侵略行動を呼び起こすこととなり、第二次世界大戦の呼び水となってしまった。大戦ではフランスは国土の大半をドイツ軍に占領され、ヴィシー政府のペタン政権が成立すると、社会党もそれへの全権付与を承認した。

戦後の社会党

 戦後の1946年に成立したフランス第四共和政ではフランス共産党MRP(人民共和派)とともにド=ゴールの臨時政府(三党政府)に加わったが、共産党とド=ゴール派の対立の中に巻き込まれ、次第に党勢を失った。1960年代も低迷を続けたが、1971年にミッテランが書記長となって党を再建(新生社会党)し、党勢回復に努め、共産党などの革新勢力の連携に成功した。

ミッテラン時代

 ド=ゴール後のフランス政治の停滞が続く中で、1981年5月の大統領選挙で社会党党首ミッテランが社共統一候補として当選し、第五共和政第4代大統領に就任した。ミッテラン政権は死刑の廃止、企業の国有化や社会保障の拡充など社会政策を進めたが、経済停滞から財政難に陥り、1986年の議会選挙では社会党が大敗、右派のシラクを首相に指名せざるを得なくなった。ここからコアビタシオンといわれる大統領が革新、首相が保守という「ねじれ」時代に入る。しかしミッテランは1988年の大統領選挙でシラクを破って再選され、以後95年5月まで、合計14年の長期政権となった。退任の翌年、死去した。先進国では数少ない革新政権であったが、国民的支持は高かった。 → 現代のフランス

オランドからマクロンへ

 しかし社会党はミッテラン死後のシラク大統領、サルコジ大統領時代は低迷を余儀なくされた。ようやく、2012年4月の大統領選挙でオランドが決選投票の結果サルコジに辛勝し、第五共和政第7代大統領となった。首相にはジョスパンが就任した。オランド大統領は公約どおり閣僚の半分を女性としたり、富裕税を増税したり、同性婚を認めるなど社会党色を出していたが、むしろ同じ社会党で2007年大統領選挙候補だったセゴレーヌ=ロワイヤルとの事実婚、女性ジャーナリストとの不倫などの話題は豊富で人気は低迷した。期待された雇用も回復せず、経済停滞が続く中、2015年には1月の諷刺新聞『シャルリー=エブド』襲撃事件、11月のパリ同時テロ(犠牲者130人)とテロ事件が相次ぎ、フランス政治の原則であるライシテ(政教分離)が動揺した。2017年の大統領選挙では自らあまりの人気の無さから出馬を断念した。
 2017年大統領選挙は、左右両派から有力候補が5人出馬し、かつて社会党に属し、オランド政権下で経済・産業・デジタル大臣を務め、中道新党「共和国前進」を率いる39歳のマクロンと、右翼の国民戦線ル=ペンの間で争われ、若さに期待されたマクロンが大統領となった。社会党は分裂し、主流のアモンが立ったが、得票率は約6%にとどまり、左派のメランションも惨敗、大きく党勢を後退させている。

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