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中国仏教

およそ後漢のころ西域を通じて大乘仏教が伝えられ、魏晋南北朝時代に独自の発展を始め、唐代に隆盛し、多くの宗派が形成される。さらに朝鮮、日本の仏教にも大きな影響を与えた。

中国への仏教伝来

 インドで成立した仏教が、中国に伝来した時期については、文献上では前漢の哀帝の紀元前2年に大月氏国の使者が伝えたのが最初とされる。そして最初の信者となったのが後漢の明帝(在位57年~75年)の異母弟楚王英であり、皇帝としての最初の信者は後漢の桓帝(在位147~167年)であった。後漢での仏教は道教の仙人である黄帝と一緒に仏陀が祀られており、不老長寿の霊力のあるものとして信じられた。仏教は現世的な功利を目的とする信仰の形で後漢の社会に受け入れられたのであった。

大乗仏教の需要

 仏教経典が伝えられられたのは3世紀の西晋時代で、敦煌に住む月氏の人、竺法護(233年~310年)が初めて多くの大乗仏教の経典を漢訳した。彼の翻訳した『正法華経』は観音信仰の広まる基礎となり、また『維摩経』は竹林の七賢などの清談にも影響を与えた。次いで西域から渡来した僧の仏図澄310年に洛陽で、鳩摩羅什401年に長安で布教を行い、らがことによって、大乗仏教の本格的な受容が始まる。<鎌田茂雄『仏教の来た道』1995 講談社学術文庫>

中国仏教の発展

後漢~西晋・東晋 西域を通って伝えられた仏教は、1世紀の後漢時代に中国に浸透し始めた。はじめは老子や荘子の道家思想と同化して受け入れられたようだが、3~5世紀の西晋・東晋の時代に西域僧の仏図澄五胡十六国の動乱の時期であった華北に入り、インド僧鳩摩羅什も多くの大乗仏典をもたらし、中国人僧侶とともにその漢訳にあたった。さらに法顕はグプタ朝時代のインドに赴き『仏国記』を書いた。このようにインドとの間の僧侶の交流が盛んとなり、大乗仏教が伝えられた。そのため5~6世紀の南北朝時代に、中国の仏教は急速な発展を遂げた。仏図澄の弟子の道安は中国で最初の仏教教団をつくり、さらにその弟子の慧遠は中国の浄土教信仰の祖となった。
北魏の仏教 5世紀の前半に北魏太武帝が華北統一を進める中で、北涼国を滅ぼしたとき、そこにいた僧侶三千人を捕虜とし、多数の北涼国人とともに首都平城に強制移住させたころから、北魏の国内に広まった。446年には、道教信者となった太武帝による弾圧(法難(廃仏))が行われた。しかし次の文成帝の代から再び仏教は盛んとなり、北魏の都平城の近郊の雲崗に巨大な石窟寺院が造られた。さらに孝文帝による洛陽遷都後は、貴族にも信者が増え、宣武帝・孝明帝はみずからも仏教を信仰して保護したため、仏教は大いに隆盛し、都洛陽には多くの寺院が建設された。洛陽には北魏の末に一三六七の寺院があり、都市の三分の一は寺院に占められたという。また洛陽郊外の竜門の石窟はその盛況を物語るものである。<川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫 p.377>
南朝の仏教 南朝では梁の武帝の保護もあり、民間に定着した。武帝は自ら「三宝の奴」と称し、仏教を保護し、多くの寺院を建立した。その仏教が盛んであったことは、“南朝四百八十寺”と謳われたことでも知られている。南朝の宋の仏教は朝鮮にも影響を与えており、また南朝と外交上の接触を持った「倭の五王」を通じて、日本仏教にも影響を与えた。また、伝承ではこのころ、インドから渡来した達磨が禅の修行を伝え、のちの禅宗の始祖となったという。
隋唐 次の隋・唐時代はともに仏教を保護し、国家統制も加えられ国家との結びつきを深めた。唐の仏教は鎮護国家仏教としての基本的性格をもっていたが、玄奘義浄のようにインドに赴いて多くの大乘仏教の経典がもたらされたことにもよる。それによって中国仏教は独自に展開し、天台宗浄土教密教禅宗などの教団が成立しのがこの時代である。一方で唐王朝は道教を国教として保護した。道教は唐王朝の王室が信仰し、仏教は貴族層に受けいられrていたが、仏教と道教はたびたび対立し、唐の後半になると、845年会昌の廃仏といわれる武宗の廃仏が行われ、仏教は打撃を受けた。北魏、北周、唐、次の五代の間の仏教弾圧をあわせて「三武一宗の法難」というが、規模、意義から言ってこの時の弾圧が最も重要である。この弾圧によって仏教に対する国家的保護の時代が終わっただけでなく、唐代に栄えた外来宗教である景教(ネストリウス派キリスト教)、ゾロアスター教祆教)、摩尼教がいずれも中国で実質的に消滅するきっかけとなった。
 10世紀以降の宋代に仏教は復興し、禅宗、浄土宗、密教、天台宗、華厳宗などが再び盛んになった。特に禅宗はめざましく発展し、新興階級である士大夫の支持を受けて他の宗派にかわって仏教の主流となり、12世紀に臨済宗や曹洞宗など多くの宗派に分かれた。禅宗は儒教の宋学の形成にも強い影響を及ぼし、いずれも朝鮮や日本に伝えられ、それぞれの文化形成に大きな存在となった。また、民間では阿弥陀信仰が盛んになり念仏によって極楽浄土に往生するというわかりやすい教えが浸透した。なお宋代には木版印刷が普及して膨大な経典を集大成した「大蔵経」が刊行されている。禅宗は士大夫層に受け入れられたのに対し、浄土宗系は民間信仰と結びついて民衆に浸透していった。
 13世紀に中国を支配したは、モンゴルの時代からチベット仏教に帰依していたので、チベット仏教を国教とし、フビライはチベット僧パスパを国師とした。一方、中国在来の宗教に対しては寛容であった。首都大都を始め各地にチベット仏教寺院を建て、篤く保護したがそのため支出がかさみ、元の財政を圧迫した。異民族支配が続く中、宋代に始まるという阿弥陀信仰の結社である白蓮教が民衆の反モンゴル感情と結びつき、さらに弥勒仏が現れて民衆を救済するという下生信仰が生まれて、元に対する紅巾の乱が起こった。
明・清 明代にも白蓮教は邪教として弾圧されながら存続し、清中期には白蓮教徒の乱を起こす。これらは仏教と道教などの民間信仰が混合したものであり、仏教そのものとしては禅宗と浄土教の融合が進んだが、次第に衰退した。

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鎌田茂雄
『仏教の来た道』
1995 講談社学術文庫