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デンマーク

スカンジナヴィア半島の南にある島々とユトランド半島のノルマン人の国。北欧諸国の一つで、現在では小国だが、14世紀にはカルマル同盟の盟主として、ヨーロッパの大国であった。17世紀の三十年戦争に介入して敗れ、プロイセンに押されて領土を縮小させた。

デンマーク地図

デンマーク YahooMap

 ユトランド半島とその東側の島々に拠ったノルマン人の一派のデーン人が9世紀後に建てた国。北欧諸国(他はスウェーデンとノルウェー)の一つ。
 15世紀にはデンマークは、カルマル同盟の盟主であり、北欧で最大の勢力を持つ大国であったが、16世紀にはスウェーデンが分離し、17世紀の三十年戦争頃から衰退し始めた。1864年のデンマーク戦争で、ユトランド半島南部のシュレスヴィヒとホルシュタインを失い、その後のデンマークは「外で失ったところを内で取り戻そう」というかけ声の下、国内の未開拓地の開拓運動を開始し、それに成功した。独自の酪農を主体とした農業を柱とした小国として独自の存在感のある小国として存続している。
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デンマーク(1) 北海帝国の繁栄

デーン人の北海帝国

 9世紀頃にデーン人の王国、つまりデンマーク王国が有力となり、ユトランド半島とスカンジナヴィア半島の南部を支配するようになった。初めはフランク王国の影響を受けてキリスト教(カトリック)を受け入れ、10世紀には神聖ローマ帝国に臣下の礼をとった。11世紀に入り、スェーデンやノルウェーに対してもデンマークが優位に立つようになった。デンマーク王国の王子クヌートは1016年にイングランドを征服してデーン朝を開き、さらにデンマーク王位についてクヌート王となった。クヌート王はクヌート大王とも言われ、ノルウェーとスウェーデンにも進出し、その支配領域は北海帝国とも言われた。デーン人のイングランド支配は1042年まで続いたが、イングランドではその後衰退し、アングロ=サクソン王朝が復活した。

ハンザ同盟と争う

 デンマークは、13世紀ごろ塩漬けにしんなどの特産品を輸出し、北海とバルト海の貿易で繁栄、バルト海で最も優勢となり、現スウェーデン南部のスコーネ地方やバルト海中央のゴットランドを領土とし、エストニアにも進出した。これは同じくバルト海で活動していた北ドイツのハンザ同盟諸都市と対立することとなり、14世紀にはドイツのハンザ同盟と争った。

デンマークの全盛期。カルマル同盟

 デンマークの王女マルグレーテはノルウェー王と結婚したが、父と夫が死んだため1387年にはデンマークとノルウェー両国の女王となった。1397年にはスウェーデン王を廃して、三国を同君連合の国家とした。これをカルマル同盟という(彼女自身は摂政として実権を握った)。これによってデンマークはノルウェー領であったグリーンランドも領有した。こうしてデンマークはカルマル同盟の盟主として15世紀に最も栄えた。

カルマル同盟の解体

 次第に分離独立の要求を強くしたスウェーデンで反乱が起き、1523年にグスタフ=ヴァーサが国王となったため、カルマル同盟は実質的に崩壊した。その後は、デンマーク=ノルウェー連合王国として実質的にノルウェーを従属させ、なおもヨーロッパの有力国として存続した。

三十年戦争に介入

 17世紀には、クリスチャン4世が首都コペンハーゲンの建設などを進め、なお繁栄が続いていたが、ドイツに三十年戦争が起こると1625年に新教徒側でドイツに介入したが失敗した。またスウェーデンのグスタフ=アドルフが新教徒軍の盟主として軍事的成功を重ねると、それを妨害しようとして出兵し、逆に敗北して1645年の講和で国土のかなりの部分を失い、デンマークの衰退が決定的となった。
 それでも海洋国家としての伝統は続いており、17世紀にスペイン・ポルトガルの衰退によって西欧諸国が大西洋の黒人奴隷貿易に参入しするようになると、デンマークも1671年に特許会社として西インド会社を設立して、アフリカ西岸の黒人奴隷を西インド諸島に移送して利益を上げる競争に加わった。

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デンマーク(2) 小国主義への転換

19世紀の前半、シュレスヴィヒ・ホルシュタインの帰属をめぐってプロイセンと対立。1864年のデンマーク戦争に敗れて両公国を放棄し、一気に国土を縮小した。その後、小国主義に徹し農業を中心とした国づくりに努力。第一次世界大戦では中立を守ったが、第二次世界大戦ではドイツ軍に占領された。

 デンマークは、カルマル同盟の盟主として、15世紀には北欧三国の中心となって最も強大であったが、17世紀には三十年戦争に介入してスウェーデンなどに敗れ、衰退が始まった。
 近代ではナポレオン戦争でナポレオン側に付いたが、1814年にスウェーデン軍に敗れ、キール条約でそれまで同君連合であったノルウェーを失い、国土を縮小させた。アイスアンドとグリーンランドは海外の領土として維持していた。19世紀、デンマークにとって大きな試練となったのは、ユトランド半島南部のシュレスヴィヒ・ホルシュタインをめぐるプロイセンとの確執であった。

シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題

 ユトランド半島南部のシュレスヴィヒ・ホルシュタインはそれぞれデンマーク王国と同君連合となっている公国であったが、北部のシュレスヴィヒはデンマーク人(デーン人)が多く、南部のホルシュタインはドイツ系住民が多かった(しかもホルシュタインは中世では神聖ローマ帝国・1815年以降はドイツ連邦にも加入していた)。
最初の衝突19世紀に民族主義の高まりを受けて、1848年にシュレスヴィヒ・ホルシュタインの住民が独立運動を開始し、キールに臨時政府を樹立すると、プロイセン王国はそれを支援する口実で出兵した。その狙いは海港都市キールを獲得することにあった。しかし、プロイセンのバルト海進出を警戒するロシア、イギリスなどが出兵に反対したためプロイセン軍は撤退、両公国はデンマーク領にとどまることになった。当時ドイツはドイツ連邦に代わり、フランクフルト国民議会ができたものの、このシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題でも主導権をプロイセンに握られて、その無力化が明らかになり、その一方でプロイセンの強大化という事態が明確になっていった。
ロンドン議定書 この最初の衝突(第1次デンマーク戦争とも言う)はヨーロッパの中央に位置しバルト海の出入り口を押さえるユトランド半島をめぐる問題であるので、ヨーロッパの列強が強い関心を寄せ、1852年にロンドン会議で調停されることになった。その結果、ロンドン議定書が成立、デンマーク王国はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン公国との同君連合を認められたものの、二公国に独立性の強い自治権を与え、デンマーク憲法を適用しないことを約束、妥協する形となったためプロイセンも撤兵した。しかし両地域の住民にはなおも不満が残った。

デンマーク戦争

 1863年、デンマークは新国王即位とともにシュレスヴィヒ公国にデンマーク憲法を適用、つまり併合しようとした。シュレスヴィッヒの住民は強く反発、ホルシュタインの民衆も同調して、再びキールに臨時政府を樹立しプロイセンに支援を要請した。プロイセンのビスマルクは、デンマークの行動は先のロンドン議定書違反であるとして、ドイツ連邦(1851年にプロイセンの主導で復活していた)の両雄の一方であるオーストリアに共同での出兵を要請、1864年2月にデンマーク領シュレスヴィヒに侵攻した。これがデンマーク戦争(第2次という場合もある)を起こした。
デンマークの敗北   ビスマルクはこのときの出兵を反乱の支援ではなく、デンマーク王のロンドン議定書違反を理由としたため、前回と違い列強も介入することができず、デンマークは孤立した戦いとなったために敗れた。その結果、デンマークはシュレスヴィヒ・ホルシュタインを放棄し、プロイセンとオーストリアの共同管理に委ねざるを得なくなった。
国土の40%を失う この敗戦により、デンマークはヨーロッパ大陸とつながる南部国境地帯の領土を大幅に奪われ、国土の約40%を失った。この肥沃な土地を失ったデンマークは、残された狭小な国土で再生を図らなければならなくなり、小国主義を採用し、国土の開発と酪農を中心とした農業国に転換する出発点となった。現在のデンマークもこの路線を歩んでいる。なお、プロイセンは、シュレスヴィヒ・ホルシュタインの単独支配を狙って1866年に普墺戦争でオーストリアと戦い、その領有に成功して大国化に向買っていくことになる。

デンマークの小国主義

 デンマークはプロイセン・オーストリア軍との戦争に敗れ、1865年に最も肥沃なシュレスヴィッヒ・ホルシュタインの両州(自治公国)を失った。それはデンマーク国民にとって屈辱的なことであったが、しかしデンマークは、領土回復の夢を追わず、残された国土をフルに活用しようという小国主義に転換した。それを指導したのがダルガスという一人の工兵士官だった。彼は「外に失ったものは内に取り返そう」と呼びかけ、ユトランド半島北部の土地は沼地と原野の広がる荒蕪地を森林に変え、それによって冷害と水害を防止し、ジャガイモ畑と牧場を可能にした。植林にはさまざまな失敗の末、親子二代で樅の木を育てることに成功した。それを支えたのは熱心なユグノー(プロテスタント)の信仰心であった。
『デンマルク国の話』 この話は、1911年に日本の内村鑑三が講演で紹介し、教科書にも登場して広く知られるようになった。内村鑑三は明治時代のキリスト教指導者で日露戦争の際に非戦論を主張したことでもよく知られている。また第一高等学校の教員だったとき、教育勅語に不敬をはたらいた(拝受の時最敬礼をしなかった)ことから大問題となって辞職したことがあった。彼には『代表的日本人』などよく読まれた著作もあるが『デンマルク国の話』もその主著のひとつである。そこで紹介したのはデンマークが小国として存在していることだった。彼が説いた、
  • 戦争に敗れることは不幸ではない、戦争に敗れて精神に敗れない民が真に偉大な民である。
  • 天然は無限の生産力を持つ、よく開発すれば小島もよく大陸に勝る産を得ることができる。
  • 国の実力は軍隊や軍艦、または金ではない、信仰(にもとづいた勤勉な精神)である。
という考え方は、戦前には無視されたが、第二次大戦敗戦の後の日本の復興に向かう日本国民に大きな力となった。
<内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』1946 岩波文庫>

デンマーク(3) 現代のデンマーク

現代のデンマーク王国は19世紀以来の小国主義を継承しているが、NATO、EUには加盟している。

 正式国号はデンマーク王国。デンマーク(1)はノルウェー、スウェーデンらと並ぶ北欧諸国の一つ、ドイツと陸続きのユトランド半島とその東側の諸島からなる。グリーンランドもその国土の一部であるが、現在は自治政府が統治している。これらはかつてノルマン人(ヴァイキング)の活動の拠点となっていた地域であった。
 首都はコペンハーゲン。面積は日本の九州とほぼ同じ(グリーンランドを除く)、人口は約500万。宗教は他の北欧諸国と同じくプロテスタントのルター派を国教とする。
 デンマークを代表する人物としては、19世紀の童話作家アンデルセンが有名。また実存哲学の『死に至る病』などを著したゼーレン=キェルケゴール、英語学のイエスペルセンなどがいる。

Episode デンマーク国旗の由来

 1219年「デンマーク王ワルデマール3世が、バルト海に進出し、エストニアに遠征した。このとき、敗戦寸前に陥ったデンマーク軍は、突然白十字を有する血の色の旗が天から降ってくるのを見た。これを神のお告げと信じたデンマーク軍は奮起して最後の反撃を行い勝利を得た。赤字に白十字の旗はこれよりデンマーク国旗となった(ダーネブローという)。<武田龍夫『物語北欧の史』1993 中公新書 p.18>

第二次世界大戦

 ナチス=ドイツが1939年9月、ポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まった。東部戦線が一段落した1940年4月、ドイツ軍は突如、デンマークに侵攻、たちまちのうちに占領され、降伏した。その後、ドイツの占領下にあったが、レジスタンスやゼネストによる抵抗運動が続き、1945年5月4日のドイツ降伏により、6日、解放された。
 大戦後、シュレスヴィヒ地方でデンマークへの併合を望む声が起こり、連合国もそれを支持したが、デンマーク政府は国境の変更を辞退し、小国主義の原則を守った。

冷戦下のデンマーク

 東西冷戦が深刻化するとデンマークはノルウェーと共にNATOに加盟し、西側寄りの姿勢を明確にした。デンマークのNATO加盟によりバルト海の出入り口がふさがれる形となるソ連は激しくデンマークを非難したが、デンマークは「大国ソ連と同様に、小国デンマークも安全保障上の権利を有する」と回答し、譲らなかった。
 にわかに戦略的価値を増したデンマーク領グリーンランドは1951年にアメリカとの防衛協定により、米軍管理にゆだねられることとなった。しかし、デンマークは本土内にはアメリカ軍基地を置くことを認めず平時の核兵器の持ち込みも認めない姿勢を守った。1973年にはイギリス・アイルランド共にECに加盟(拡大EC)、経済構造も工業化を進めている。しかし、EU共通通貨のユーロの使用については2000年の国民投票で否決された。
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内村鑑三
『後世への最大遺物・デンマルク国の話』
1946 岩波文庫

武田龍夫
『物語北欧の歴史』
1993 中公新書