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阮朝/越南国

1802年に阮福暎が初めてベトナム全土を統一して成立、1804年に国号を越南とし清を宗主国とした。19世紀後半にはフランスの侵攻を受け、その保護国とされた。最終的には1945年に消滅した。

 ベトナム全土を最初に統一した王朝であり、同時にベトナム最後の王朝でもあった。グェン朝とも表記する。南部阮氏の生き残りであった阮福暎が、1802年にタイとフランスの支援で北部のタンロン(ハノイ)を占領、西山朝(国号は大越国)を倒し、ここにはじめてベトナムの北部(トンキン地方)と中部、南部(メコン=デルタ)を統一したベトナム国家が成立した。同年、阮福暎はフエで即位して嘉隆帝を名乗った。1804年、宗主国として仰ぐこととし、国号をベトナムの漢字表記である越南に定めた。都は阮氏政権以来の拠点、中部ベトナムのフエに置いた。
 阮朝は宗主国である清朝の制度を取り入れ、科挙(1802年から1914年まで実施された)などを整備し中央集権化を進めた。しかし、1858年以降はフランスの侵攻を受け、1883~4年には2次にわたるフエ条約でアンナン(ベトナム中部)とトンキン(ベトナム北部)をフランスの保護国とされた。宗主国の清はそれを認めず、ただちに清仏戦争となったが、清は敗れフランスのベトナム保護国化が確定した。阮朝の実質的な国家権力は奪われてしまったが、形の上ではその後も第二次世界大戦後の1945年まで存続した。しかし、ベトナム民主共和国の成立によって最後の皇帝バオ=ダイが退位して消滅した。

阮朝の歴史的意義

 阮福暎が建国した阮朝=越南国は、ベトナムの歴史の中で、北の中国との境界地域から、南のメコンデルタ地帯までの地域を含むベトナム全土を統一的に支配した最初の王朝であることに留意する。それ以前には現在のベトナム全土におよぶ政権は存在せず、長く南北では別な政権が続いていた。しかし、同時に他の歴代のベトナム王朝と同様に清を宗主国とするなどの歴史的体質を引き継ぎ、建国以来半世紀も経たぬ19世紀後半にフランスの領土的野心の前に国土を奪われ、植民地化していくこととなる。

フランスの進出

   阮朝のベトナム統一をフランス人ピニョーが援助したことから、フランスはベトナムに強い関心を抱き、進出をねらっていた。19世紀中ごろ、アジアに対するヨーロッパ列強の進出が活発となり、1840年にはアヘン戦争が起こった。この情勢を見た阮朝は当初の外国との通商政策を改め、キリスト教禁止を打ち出し、鎖国体制をとるようになった。その経過でフランス人とスペイン人の宣教師が殺害されるという事件が起こった。宣教師殺害事件に対する賠償と開国を要求したフランスのナポレオン3世は、1858年にダナンを砲撃し、インドシナ出兵を開始し、フランス=ベトナム戦争(仏越戦争)となった。その結果、フランスは1862年サイゴン条約で南ベトナムの一部コーチシナを獲得した。

フランスの保護国化

 ナポレオン3世没落後の第三共和政の時代にもフランスはベトナム侵略を続け、1873年にハノイを占領、翌74年には第2次サイゴン条約を締結して、阮朝政府に対してフランスの実質的な保護国化を認めさせた。82年にはフランスが再度ハノイを占領、それに対して、中国人劉永福が指揮する黒旗軍がベトナム軍とともに戦い、1883年にフランス軍のリヴィエール海軍大佐を戦死させるなどの勝利を占めた。フランスは同年、第一次フエ条約でアンナン(安南)はフランスの保護国であるとされ、さらに翌年の第二次条約で保護国化の内容が定められた。フランス軍に敗れた阮朝皇帝は、清朝皇帝に支援を要請、清朝も宗主国としてベトナムを守るため、1884年6月、清仏戦争が勃発した。清朝の李鴻章政府は、朝鮮で甲申政変が起こったため講和を急ぎ、天津条約を締結してベトナム保護国化を承認した。これによって、ベトナムはカンボジアと併せてフランス領インドシナ連邦の中の一邦となった(1899年にラオスが保護国化され加えられる)。

阮朝の消滅

 阮朝の宮廷はフランスの保護のもとで形式的には存続したが、実権は全くなくなってしまった。それに対して20世紀初頭にはファン=ボイ=チャウらの独立運動が始まるが、フランスによって弾圧された。1940年9月に日本軍が進駐(北部津仏印進駐)、その軍政下に入ると、さらにベトナム独立運動も活発となる。
 日本軍は1941年7月、南部仏印進駐を実行、ベトナム全土を支配権に収めた。
 戦後の1945年9月にホー=チ=ミンの指導によるベトナム民主共和国が独立を宣言し阮朝はバオ=ダイを最後の皇帝として消滅した。
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