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通州事件

 盧溝橋事件直後の1937年7月29日、冀東防共自治政府の首都通州で、中国人保安隊が反乱、日本軍守備隊と居留民(日本人・朝鮮人)を襲撃し、約200人以上の犠牲者を出した。その残虐な殺戮に対して日本国内で反中国感情である「暴支膺懲」の声が高まり、日中全面戦争へと進むことになった。

通州(現在の北京市通州区) GoogleMap

盧溝橋事件の直後の1937年7月29日、中国の北平(北京)の東方約20kmの冀東防共自治政府(冀東政権)の首都通州で、配下の保安隊が反乱し、日本軍守備隊を攻撃、さらに民間の日本人居留民200名(そのうち約半数は朝鮮人)以上を惨殺した事件であった。中国人保安隊による抗日蜂起の一つであったが、国内の新聞は中国人に対する復讐心をあおり、全面的な日中戦争へとすすむステップとなった。
参考 通州事件は高校用の世界史・日本史教科書では取り上げられることは殆どない。用語集にも掲載されていない。大きく捉えればこの事件は盧溝橋事件に続いて起こった日本と中国の衝突事件(日本ではそれらをまとめて当初は北支事変といった)のひとつであるとされ、個別に取り上げられることはない。ただ、多くの日本人居留民が殺害されているという重要な要素があるため、取り上げるべきであるという主張が最近になって現れて、事件への言及も多くなっている。しかし中国人による日本人殺害事件という側面だけを強調して取り上げることは、日中戦争の全体像を見失う危険性があり、不当に政治的に利用される恐れもあるので、誤った歴史認識に陥らないように配慮しながら、この事件をどう見るべきか、本質をどう考えるべきかについて検討を加えた。

事件の経緯

 1937(昭和12)年7月27日、通州の守備部隊萱島部隊は通州城南門外の中国軍を排除するために攻撃、その際、天津から来援した支那駐屯軍飛行部隊が誤って味方である保安隊の訓練所を爆撃してしまった。この誤爆は通州の日本の特務機関長が冀東政府と保安隊にただちにわびを入れ、収まった。通州を守備する主力の萱島部隊はその夜、北平の南苑で抵抗する学生部隊が加わった中国国民政府系第二十九軍との戦闘支援のため移動、翌28日にかけて激戦を続けた。この7月28日の北平南苑の戦闘では第二十九軍副軍長をはじめ、5千人以上の戦死者が出ており、本格的な日中両軍の戦闘だった<臼井勝美『新版日中戦争』2001 中公新書 p.72>。
 主力守備隊が通州から北平南苑の戦闘に参加するため留守になったことで、居留民の保護は冀東政権保安隊と、日本軍で残った警備隊51名に自動車部隊・憲兵などの120名、非戦闘員が23名のみであたることになった。当時通州には北平から非難してきた人々も含め約400人の居留民がいたと想定されている。28日、細木特務機関長は保安隊隊長の張慶餘に中国軍の退路を断つべく出動せよと命じたが、張は拒否、二人はピストルを抜いてにらみ合ったが、その場は収まった<笠原十九司『通州事件』2022 高文研 p.198>。
 翌29日午前3時頃、保安隊が武装蜂起した。保安隊は兵力約3000であったと思われる。反乱軍は先ず冀東政府の中枢を襲い、抵抗する者を射殺、首席殷汝耕を拉致し連れ去った。別の一隊は日本の特務機関、警察署、領事館、さらに冀東銀行、冀東病院などとその宿舎を襲撃し日本人の吏員とその家族を殺害した。さらに別な一隊は満鉄出張所官舎など日本人住居を次々と襲撃した。襲撃されたところには日本人向けの旅館もあり、そこでは従業員・客が集団で殺害された。日本軍の兵営では激しい抵抗の末に全員が戦死、保安隊も約200人が戦死した。戦史の上では通州の戦闘は、保安隊と支那駐屯軍との戦いとして残されているが、保安隊によって多くの非戦闘員が殺害されたのがこの事件が凄惨な記憶として残ることとなった。居留民殺害については中国側記録では、「通州反正」とされている。反正とは不正をただすという意味で、ここでは「日本の将兵及び日本人、朝鮮人の浪人」を捜索して殺害」したのだとして正当化されている。しかし、殺害方法は凄惨を極めており、ここでは詳述できなので、参考図書に集録されている生存者の記録をぜひご覧下さい。
 29日午後には日本軍の反撃が開始され、天津からの飛行部隊が通州の保安隊を空爆、対空兵器を持たない保安隊の多くは戦場を離脱した。29日夜、張慶餘は日本軍の来援部隊に包囲される前に通州を放棄することを決め、北平の宋哲元軍との合流を目指したが、宋哲元はすでに北平を離れており、合流できないまま、日本軍に追撃され、この間、連行した殷汝耕は日本軍に救出された。張慶餘は宋哲元軍との合流を諦め、保安隊の解散を決意し、バラバラに戦場を離れた。
 通州では30日、飛行隊が保安隊の残存兵を上空から掃討し、午後4時頃萱島部隊が帰着した。すでに保安隊の姿はなく、反乱は終結していた。通州事件での民間人犠牲者数は、公式には在天津日本総領事北平警察署通州分署による調査記録によると、日本人114人、朝鮮人111人の合計225人とされている(数字は諸書によって多少の違いがある)。現在の研究では、居留民の他に出張などで滞在していた人も含めて、民間人の犠牲者は犠牲者は二百数十人、そのうち約半数が朝鮮人、とするのが妥当とされている。<笠原十九司『通州事件』2022 高文研 p.222>

どのような状況で事件は起こったか

 通州事件はどのような歴史的文脈の中で起こったのか。まず中国の北京(当時は北平と言った)の東方、約20kmの交通の要地である通州に、なぜ日本軍・日本人居留民がいたのか。日本軍の支那派遣軍については盧溝橋事件で説明しています。民間の日本人は天津、北平が多かったが、通州には1937年には約400人の日本人および当時日本の植民地支配下にあった朝鮮人が居留していたと言われている。通州は先ず第一に冀東防共自治政府(冀東政権)の首都であったことが重要である。冀東政権は、1931年の満州事変後に、中国本土に勢力を拡大しようとした関東軍が、華北分離工作を進め、長城南部の華北地方を中国政府の統治から分離させて、1935年11月に設立されたもので、その実態は日本の傀儡政権であった。
 そのころ中国共産党はコミンテルン第7回大会の決議に従って1935年7月に八・一宣言を出し、抗日統一戦線の結成を呼びかけていた。さらに日本の分離工作が進められていることに対し、1935年12月に北京の学生を中心に十二・九学生運動などの抗議行動が起こされていた。この運動の中で歌われるようになったのが現在の中華人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」であった。この動きを背景として、1936年12月蔣介石が東北軍の張学良に軟禁され、日本軍への抗戦と共産党軍との停戦を強要されるという西安事件が起きた。その結果、蒋介石は共産党と協力して日本の侵略に対して戦うことを約束するという重大な変化が生じていた。
 関東軍の華北分離工作に対する中国人の怒りは、日本の傀儡政権である冀東政権に対する抵抗となって現れた。冀東政権が中国政府、民衆の怨嗟の的となった理由の一つは、冀東政権のもとで密貿易が公認されていたことだった。それは正規貿易を妨げ中国の最大の財政収入源であった関税収入を激減させたばかりでなく、アヘン、モルヒネなどの蔓延の原因となっている、ととらえられていた<臼井勝美『新版日中戦争』2000 中公新書 p.44,60>。
 そのような切迫した雰囲気の中で、1937年7月7日盧溝橋事件が起こった。きっかけとなった銃声がいずれの軍の者か明白ではなかったため現地の領事館は事態の沈静化に努めたが、支那駐屯軍と中国第二十九軍のにらみ合いはその後も続き、北京(当時は北平)周辺では衝突が続いた。7月25日には廊坊事件、26日には広安門事件がおこったがいずれも衝突の原因は相手方にあると主張して詳細はわからないまま、にらみ合いが続いた。幸い北平市内では現地の外交折衝によって戦闘は起こらなかったが、不安を募らせた日本人居留民は、親日政権である冀東自治政府の首都通州は安全であると考え、多くが避難していった。ところがその通州で7月29日、悲劇が起きることとなる。

通州に何故日本人・朝鮮人がいたのか

 通州は交通の要衝であり、関東軍が満州事変の停戦協定とした塘沽停戦協定で設けられた非武装地帯の端に含まれており、1935年に冀東防共自治政府の首都とされた。非武装地帯では反日活動は禁止され、その動きがあるときは日本は鎮圧のため出動できるという規定であったから、天津の支那派遣軍司令部は通州に部隊を置き、北平への出兵拠点としていた。ただし、表面的には冀東自治政府が統治することになっていたので、その治安維持は自治政府所属の保安隊にゆだねられていた。
 この通州には、避難民も含めて約400人の日本人・朝鮮人の居留民がいたとされている。居留民は冀東政権関係の公務員、医師、綿花栽培の指導員などもいた。しかし通州で最も盛んだったのは、冀東政権が管理する密貿易であり、日本からの人絹や砂糖などを中国政府の正当な関税を払わずに国内に流すことで大きな利益を得ていた。また熱河省や河北省はアヘンの産地であったので、アヘンの精製が盛んに行われ、密かに通州から天津などを経て広く密売され行った。またアヘンを原料とするヘロインなどの麻薬が盛んに製造されていた。このような密貿易やアヘン、ヘロインの売買に従事する者も多く、また商人を相手する旅館、売春婦も多かった。朝鮮人は日本人として通州の居留民であったが、統計上は「醜業」とされる売春婦も多かった。
 冀東政権成立後、天津・北平・通州における日本人と朝鮮人の居留民は急増した。1936年の統計によると天津では日本人6736人、朝鮮人2021人、北平(北京)では日本人1824人、朝鮮人2593人、通州では日本人109人、朝鮮人181人という。これらは「日本人と朝鮮人の浪人」と称される、密輸かアヘン貿易、ヘロインの精製などにあたっている者が多かった。<笠原十九司『通州事件』2022 高文研 p.133>
 これらの朝鮮人はどのような存在だったのか。
(引用)こうした華北居住の朝鮮人、とくに天津の日本租界居住の朝鮮人は、「日本公民」として日本の「治外法権」の特権を「享受」することができた。したがって、中国政府の警察には、中国人のように、逮捕、拘束、処罰することがけきなかったのである。しかし、「日本公民」の特権を利用した朝鮮人は、国籍は「日本人」であっても、「戸籍」は「朝鮮人」であり、当時の日本人社会にあっては、「朝鮮人」として厳しく差別される構造にあった。<笠原『前掲書』p.122>

保安隊はなぜ居留民を襲撃したか

 通州事件で日本人・朝鮮人居留民を襲撃したのは冀察政権麾下の保安隊であった。保安隊は日本軍の顧問がおかれ、自治政府のコントロール下におかれていたが、その性格には複雑なものがあったようだ。保安隊の隊員の中には満州を追われた張学良軍から流れてきた者も多いことも指摘されている。保安隊に不穏な動きがあることは支那派遣軍にも分かっていた。そこで支那派遣軍の池田純久大佐は自治政府首席殷汝耕に注意を促していた。しかし殷汝耕は保安隊は自分が掌握しているから大丈夫、と請け負った。日本総領事館警務部員も、保安隊の日本人顧問がしっかりコントロールしてるか、不安に感じていた<広中一成『増補新版通州事件』2021 志学社選書 p.42,54 など>。
 戦後の一時期には、保安隊が反乱に決起したのは7月27日、支那派遣軍の萱島隊が通州県城南門外にいた中国軍部隊を排除しようとして戦闘となったとき、天津から飛来した関東軍飛行隊が誤って保安隊の兵舎を爆撃したことに憤激したことがきっかけだったとされてきた<森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』1950 岩波新書 p.127-128/秦郁彦『日中戦争史』1961 河出書房 p.221>。
 しかし、1960年代になって保安隊反乱を指導した張慶餘の手記などが公開され、彼らは以前から日本軍に対する反乱を準備していたことが分かった。保安隊の幹部、張慶餘・張硯田(いずれもかつては張学良の配下だった)はすでに中国軍(第二十九軍)司令官宋哲元とも連絡を取り、反乱を起こす密約をしていたことを告白している。また生存者の証言では事前に通州市内の日本人と朝鮮人の家には目印が付けられていたという。<笠原『前掲書』 p.89,196>
 保安隊内部に抗日に決起する動きが醸成されていた背景には、中国共産党のうごきもあった。共産党は抗日統一戦線の結成のため、劉少奇(後の国家主席)を天津に派遣して工作にあたらせており、毛沢東も密かに宋哲元に決起を促していた。また共産党員が保安隊員となって加わり抗日を呼びかけていた<広中『前掲書』p.114-120>。
 通州保安隊の反乱は、通説的にいわれてきた、事件前日の日本軍機の保安隊幹部訓練所の誤爆に怒りを爆発させた反乱などという突発的なものではなく、宋哲元の第二十九軍の「平津抗戦」の一端を担うべき、周到に準備された武装反乱だったのである。反乱の数日前から保安隊幹部は宋哲元の第二十九軍の一部隊として本格的に抗日戦争に加わることを予定し、部隊編成を行っていた。実際の反乱は、29日の1日で崩壊、第二十九軍との合流を目指して撤退したが、多量の弾薬、砲弾、食糧を残しており、長期戦に備えていた。<笠原『前掲書』 p.342>
 通州に於ける保安隊の反乱が決して通州だけの突発的な出来事ではない、と考えていたのはむしろ支那派遣軍で中国軍との折衝に当たっていた参謀今井武夫だった。次のような証言がある。
(引用)尤も之れは単に通州だけに突発した事件ではなく、予て冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊が殆ど全部、二十九日午前二時を期して、一斉に蜂起し日本側を攻撃したものである。従て天津を始め、通州、大沽、塘沽、軍糧城等時を同じくした各地保安隊の襲撃事件であるが、特に通州は冀東政府の所在地で、長官の殷汝耕は親日を標榜し、日本人にとっては最も安全地帯と考えられていたので、わざわざ北平から避難者さえあった程、気を許していただけに惨害が激しかった。<今井武夫『支那事変の回想』1964 みすず書房 p.50>
 こう見てくると、保安隊の反乱は、日本の侵略に対する怒りからきているわけであって、突発的なものでなく、抗日統一戦線による抵抗運動として位置づけられるだろう。しかし、充分な統率が取れておらず、民間人虐殺というやってはならない暴虐に走り、その行動は非人道的であったことへの非難は避けられない。
 またこの時殺害された「居留民」223人の中には、約半数の朝鮮人がいた。かれらは社会では別集団で暮らしていたと思われるが、日本の植民地下にあったので日本人扱いされたのであろう。通州事件を、残虐な中国民族による日本民族に対する悪行、とはとらえられないことはこの点からも明らかである。

なぜ被害が広がったか

 通州事件はけして突発的なものではなかったし、単に日本人の殺害だけを目的にした襲撃事件だったのではない。盧溝橋事件をきっかけに多発した、組織的な中国側の抗日作戦の一環であった。それが通州ではなぜ、残虐な集団殺戮に走ってしまったのだろうか。何の理由もなくそのような行動に出るとは考えられない。保安隊の中国兵の中に、市民、学生と同じように日本軍の侵略に対する激しい怒りを抱いている者がいたであろうことは容易に想像がつく。かれらの非人道的は蛮行は許されるはずはないが、憎しみがぶつかり合う戦場で無益な殺戮に走ってしまったことは残念ながら古今で起こってきた。要はそのような凶行から一般市民を守るのが軍隊の務めであったのに、それが出来なかったことが問題なのではないのか。
 特に襲撃した部隊は中国軍の正規部隊ではなく、無秩序な野盗の群れでもない、親日の冀東政権の保安隊であり、日本人顧問がついており、通州の治安つまり居留民の生命財産を守るのが任務であるはずの部隊だった。その部隊がいかに混成部隊だったとは言え、コントロールできなかったのは冀察政権、さらに支那派遣軍の責任であったと言われてもやむを得ない。
 そのことは当の支那派遣軍が最も良く自覚していた。司令官香月少将が、居留民を守れなかったことは軍隊の手落ちであると批判されることを恐れ、中央への報告を躊躇した。また当時、北京の総領事館の外交官森島守人は、この事件がかつてのニコライエフスク事件と同じように軍の責任、しいては政治問題化する恐れがあると直感し、出来るだけ早期に現地だけで後始末を付ける必要があると考え、自治政府側に犠牲者に対する補償を急がせている。その際森島は「事件が日本軍の怠慢に起因した関係上」、損害賠償ではなく慰藉金として冀察政権から支払わせたという。<森島前掲書 p.129>
 陸軍省新聞班員だった松村秀逸少佐はそのとき天津の支那派遣軍司令部に派遣されていた。少佐によると、
(引用)その報、一度天津に伝わるや、司令部は狼狽した。私は幕僚の首脳部が集っている席上に呼ばれて、
「この事件は、新聞にでないようにしてくれ」との相談を受けた。
「それは駄目だ。通州は北京に近く、各国人環視のなかに行われたこの惨劇が、わからぬ筈はない。もう租界の無電にのって、世界中に拡まっていますヨ」・・・
あとは、売り言葉に買い言葉で激論になった。・・・配下の保安隊が叛乱したので、妙に責任逃れに汲々とした口ぶりであるのがシャクにさわり、上官相手に激越な口調になったのかもしれない。激論の最中に・・・矢野副参謀長が、すっくと立上がって「よし、議論は分かった。事ここに至っては、かくすななどと姑息なことは、やらない方がよかろう。発表するより仕方ないだろう。保安隊に対して天津軍の指導宜しきを得なかった事は、天子様にお詫びしなければならない」
と言って、東の方を向いてお辞儀をされた。この発言と処作で、一座はしんとした。「では、発表します」と言って、私が部屋を出ようとすると、この発表を好ましく思っておられなかった橋本参謀長は「保安隊とはせず中国人の部隊としてくれ」との註文だった。もちろん、中国人の部隊には違いなかったが、私は、ものわかりのよい橋本さんまでが、妙なことを心配するものだと思った。<松村秀逸『三宅坂』1952 東光書房 p.150>
 保安隊を内面指導していた天津の支那派遣軍司令部にとって、通州事件は保安隊の監督責任を問われかねない痛恨のできごとであった。彼らは通州事件そのものを隠蔽しようとしたのだ。このように、支那駐屯司令部の関心が通州事件の責任問題に向けられた結果、本来急がなければならない日本人居留民の保護に遅れを生じた。結局、北平の前線に向かっていた萱島部隊に通州に引き返すよう司令部から命令が発せられたのは、すでに事件から一日が経とうとしていた30日午前2時のことだった<広中『前掲書』p.77-78>。
 支那派遣軍は隠蔽しようとさえ思った通州事件であったが、8月に入り生存者の口から語られた殺戮の実態が日本の新聞社に伝えられると、軍の責任を問うどころか、中国人の残虐行為に対する怒りの一色で取り上げられ、中国をやっつけろ!という軍としては願ってもない応援が繰り広げられることとなった。

事件はどのように日本に伝えられ、何をもたらしたか

 通州事件が起きると、北平の日本総領事館ではその現地解決を図るべく、被害者の救済などの措置を急いだ。その努力は森島守人の『陰謀・暗殺・軍刀』に詳しい。しかし、現地の思惑を越えて、事件は日本国内で大きな反響を呼んだ。無理もない。多くの一般市民が残虐な殺され方をしたのだ。その状況は生き残った日本人の口から、現地特派員を通じて本土にも報道され、「中国人による日本人虐殺事件」として大々的に取り上げられた。新聞の見出しは「恨み深し!通州暴虐の全貌、保安隊変じて鬼畜、罪なき同胞を虐殺」(東京朝日新聞8/4)、「悲痛の通州城! 邦人の鼻に針金とおして 鬼畜の限り。この讐(かたき)とらでは!」(読売新聞8/4)などいずれもセンセーショナルなものだった。国民は、この事件を第二のニコライエフスク事件(尼港事件)だと受け取った。ニコライエフスク事件とはシベリア出兵の際に最後まで撤兵しなかった日本軍に対し、1920年5月、ロシアのパルチザンが襲撃し日本軍と居留民を残虐な手段で殺害した事件であった。
 新聞のキャンペーンは、残虐な中国人にたいする報復を「暴支膺懲ぼうしようちょう」(暴虐な支那人を懲らしめよ)という言葉で扇動した。現地では被害者に対する賠償などの解決策が進んでいたが、世論は軍の責任を問うのではなく、中国に対する強硬姿勢を求める声がますますつよまった。それは政府の当初の不拡大方針を積極策に転換させ、軍の中の拡大派(軍の中にも不拡大派は一定数存在したが)を勢いづかせることとなった。
 それらのムードに推されて、1937年8月13日には今度は海軍が主導して第2次上海事変を起こし、戦火を華北から華中に拡大することなった。そこからは支那事変(日華事変)と言われるようになったが、宣戦布告なき日中戦争がさらに拡大されることとなった。
 通州事件後、冀東防共自治政府は唐山を首都に再建されたが、実質的な日中戦争の開始によって機能を失った。日中間の紛争の現地解決の努力は困難となり、民間人に多大な犠牲を出したことで、日本国内の戦争気運を一気に盛り上げ、全面的な日中対立への引き金となったと言える。

通州事件の本質は何か

 無防備の一般市民である居留民が戦争の犠牲になったこと。日本軍は居留民を守れなかったこと。これが事件の本質です。中国人による日本人集団殺戮という一面だけで捉えるべきではありません。そこにいた民間の日本人や朝鮮人は、決して侵略者ではなく、仕事は何であり生きるために通州に行っただけに違いありません。彼らに何の落ち度もなかったことは確かです。でも殺された。そこは日本でも朝鮮でもなく中国。中国から見れば侵略者だとみられても仕方がない状況。異国の地で日本軍によって守られるべき居留民。朝鮮人も当時は大日本帝国の一員とされていたのだから、日本軍に守られて当然の居留民だった。
 保安隊の反乱は、盧溝橋事件からはじまった日本軍との戦闘が拡大する中で、冀東保安隊だけが起こした反乱ではなく、抗日戦線(中国ではその戦いを平津抗戦といった)の一環として組織されていた。また彼らの日本に対する怒りは、冀察政権による密輸などがあったと理解できる。そもそも通州が中国の国土にあるわけで、ナショナリズムからすれば「排除されるべき外国人」だったわけで、日本人が日本で襲われたのとはわけが違う。我々日本人がどう強弁しようが、中国人から見れば侵略者として見られてもいたしかたなかった。
 では保安隊の残虐行為はどうか考えれば良いのか。改めて言うまでもなく、たとえ外国人であろうと、民間人を殺害したこと自体が許されることではない。とらえ方の一つとして次のような見解が妥当なのではないだろうか。
(引用)通州保安隊の反乱は宋哲元の第二九軍と河北省首席商震の第三二軍によって展開された「平津抗戦」の一環として起こされたものであった。しかし、通州の日本人居留民と朝鮮人の冀東密輸貿易やアヘン・麻薬の密造・密輸・密売などの不法行為にたいする憎しみや恨み、憎悪などの復讐心に駆られた一部の部隊によって虐殺が行われ、一部中国住民も加わって略奪が行われたのであった。<笠原『前掲書』 p.343>
 笠原氏は同書の副題に「憎しみの連鎖を絶つ」と付けています。それは同書に収められている何人かの通州事件被害者の日本人が言っている言葉です。広中氏の著作に引用されている「虐殺」の現場を体験した生存者の証言も、同じ事を言っています。体験した日本人が共通していることは、通州事件から「中国民族は恐ろしい」という感傷だけを残してほしくない、ということです。
 事件の本質を「中国人の残虐性」とかたずけることはできません。虐殺に走ったのは保安隊という組織であり、一部混乱に乗じて略奪を働いた者はあったが、一人一人の通州の中国人が残虐だったのではない、むしろ通州の普通の中国人は保安隊の蛮行に目を覆い、中には危険を冒して日本人・朝鮮人を匿ってくれた人もあった。これらは戦後の日本人被害者の体験談の中にも語られている。当時の日本人である支那派遣軍の参謀だった今井武夫も、通州から逃れてきた安藤記者の話を聞き、次のように記している。
(引用)その他二十九日通州事件で一命を全うした日本人中には、日常中国人と親交を結び、或いは隣人の好感を得ていたため、叛乱保安隊の家探しに対し、逸ち早く中国人宅の床下や天井裏等に隠匿されて、危機を脱した実例も少なからず、中国の庶民生活に於ける相互扶助の一断面を窺い得る感じであった。<今井武夫『前掲書』 p.59>
 この一人の軍人の感想は冷静に事態を見ていると思う。
 中国との戦争の中で、日本軍が南京虐殺事件を起こしたことを認め、それを忘れず直視したからと言って、だから日本民族は残虐な民族なのだ、などという人はいないのと同じように、通州事件の事実から、中国人が残虐な民族なのだ、と決めつけないようにしたい。戦争が殺し合いであり、そこで人間性が失われること。軍隊を居留民を守るためといって外国に派遣することは、結局は居留民を守ることは出来ず、外国から見たら侵略者に他ならないこと。そして戦争では犠牲になるのはいつも一般の国民なのだ、ということを教えてくれるのが通州事件の本質だと思います。

蛇足 通州事件をどう捉えるか

 通州事件を正面から扱った「歴史書」には現在、広中一成さんと笠原十九司さんの二冊がある。それ以外にも『通州事件』という標題を掲げた出版物はいくつかある。その中で藤岡信勝氏名義の本が最も影響力があったと思われる。そのいくつかを読んだが、一言で言えば非常に感情的に“中国人はいかに残虐であるか”を強調することが主眼となっており、歴史書としての客観的な視点、史料の扱いなどで偏りが見られた。
 例えば藤岡氏の編集になる『通州事件 日本人はなぜ虐殺されたか』<勉誠出版 2017>では、事件の本質は「保安隊による無抵抗の居留民が多数、残虐な方法で殺された」事件であり、なぜ?の答えは「中国人が残虐な民族だからだ」と言っているに過ぎない。同書の寄稿者もほぼ異口同音の結論である。被害者の体験を詳しく紹介してはいるが、日本側には責任はない、犠牲者だ、という主張で一貫している。そのうえで藤岡氏は、今、日本人が通州事件を取り上げる意義として、次の3点を挙げている。( )は引用者による補足。<p.58-59>
  1. 近代日本の歴史、とりわけ日中関係の歴史のとらえ直し(東京裁判史観――日本が中国を侵略して悪いことだけを繰り返した、という史観の見直し)。
  2. 支那民族の弾圧に呻吟している周辺民族(チベット、ウイグル、モンゴル)の苦難を理解する前提。
  3. 日本で再現される可能性(中国による日本侵略)への警告として防衛問題への対処。
 これらが通州事件を学ぶ意義である、というのはもはや歴史書ではなく、それ自体が政治的プロパガンダに過ぎない。
 藤岡氏の考えでは近現代の日中関係では「日本人は常に被害者だった」という。日清戦争で日本人捕虜がひどい虐待を受けたことに始まり、大東亜戦争終結までの半世紀、日本人が中国大陸で直面したのは、「日本人の想像を超えた理不尽な暴力」であった、半世紀の間に日本人への襲撃事件はざっと三千件といわれている・・・とも言っている。
 しかし、「日本の中国との戦争は、日本側には責任がない、むしろずっと被害者だった」という主張は、はたしてどれだけ歴史的な事実として認められるだろうか。この用語集で日清戦争から日中戦争に至る関連用語をみていただくだけで、いかにそれが暴論であるか分かるだろう。藤岡氏の日中関係史では、対華二十一ヶ条、張作霖爆殺、華北分離工作などの項目は無いようだ。もし日本が先の戦争への反省を自虐的だからと言って忘却し、再び中国と戦争することを想定しているとすれば、通州で罪なく殺された200数名の日本人・朝鮮人をはじめとする何百万という日中戦争の日中双方の犠牲者を冒涜することになりはしないか。
 2025年7月の参議院選挙で、藤岡氏らの主張を真に受けて、通州事件を中国人の残虐な民族性の現れで、中国での日本人は犠牲者だったんだ、と選挙演説という公的な場で主張する政党が現れ、それが一定の支持を集めていることに強い危惧を抱き、入試の世界史の用語解説からは大きく離れる結果となりましたが、あえて見解を述べ、若い世代が世界史を学ぶ上で、事実にしっかりと向き合い、扇動家に騙されないように願っています。<2025/7/29記>