印刷 | 通常画面に戻る |

アゼルバイジャン

カスピ海西南岸一帯の地名。北部はかつてはソ連邦を構成する社会主義国であったが、1993年に独立国アゼルバイジャン共和国となっている。バクー油田を抱えロシア(ソ連)とイランの係争地であり、隣国アルメニアとの間でナゴルノ=カラバフの領有をめぐる深刻な対立を抱えている。

アゼルバイジャン GoogleMap

 アゼルバイジャンはカスピ海の西南岸の広い地域を指す地名でコーカサス(カフカス)地方の一部を構成し、南コーカサスともいわれる。北はカフカス山脈を堺にロシアと接し、西側にジョージア(グルジア)、アルメニア、トルコと接し、現在のアゼルバイジャン共和国(旧ソ連領。首都バクー)だけでなく、南半分のイラン領(中心都市はタブリーズ)を含んでいた。
 アゼルバイジャン人はトルコ語に近いアゼルバイジャン語を使う人々で、現在もトルコに親近感を持つ人が多い。南コーカサスのジョージアとアルメニアはキリスト教を受け入れたのに対して、アゼルバイジャン人はイスラーム教を受容したことが違いとなっている。イスラーム化しただけでなく、イランの影響やロシアの影響も強く受けた多面的な文化を有している。
 世界史上のアゼルバイジャンは、アケメネス朝ペルシア帝国の支配に始まり、次いでアレクサンドロス大王の侵攻によりその帝国の一部となった。アゼルバイジャンの名は、アレクサンドロスの武将アトロパテスに由来すると言う説もある。セレウコス朝シリアやパルティアはこの地方の一部を支配するだけであったようだが、ササン朝はこの地の全域を支配した。
 → 現在のアゼルバイジャン共和国  ナゴルノ=カラバフ紛争

バクーの石油

 アゼルバイジャンの首都バクーは現在も石油の産地として重要だが、そこで近代的な油田開発が始まったのは19世紀後半からである。しかし石油が吹き出ていたことは早くから知られており、13世紀のマルコ=ポーロの『世界の記述』にも「食料にはならないが、燃やすのに良い」「ラクダの皮膚病を良く治す」と紹介されている。アゼルバイジャンはまたゾロアスター教(拝火教)の聖地としても知られており、カスピ海に突き出た半島(その先端にバクーがある)のあちこちから、油層中に溶け込んだガスが漏れ出て常に炎が燃えていた。その炎は雨が降っても風が吹いても消えず「永遠の火の柱」と呼ばれ、ゾロアスター教徒の信仰を集めていた。

Epsode 文明が交錯する「火の国」

(引用)アゼルバイジャンとはペルシア語で「火の保護者」という意味である。アベルバイジャンの国名は、紀元前323年に旧メディア王国領に独立王朝を打ち立てたアトロパテス(「火を護る者」の意)という人物に由来すると言われており、その人名の意味はペルシア語による解釈と一致する。現在のアゼルバイジャン政府も、自国を「火の国(Land of fire)」と呼んでおり、国章にも火が描かれている。<廣瀬陽子『アゼルバイジャン』2016 ユーラシア文庫 群像社 p.24>

イスラーム化の時代

 7世紀にイスラーム勢力がおよんで、イスラーム化が進んだが、11世紀になると中央アジアから侵出したトルコ系のセルジューク朝の支配を受けトルコ系遊牧民(トルクメン人)の部族社会が形成された。次いで13世紀にモンゴル帝国のフラグが侵攻してこの地のタブリーズを都にイル=ハン国を樹立した。この時期は支配者であるモンゴル人、その武力を形成したトルコ人、またペルシア帝国以来の文化伝統をもつイラン人などが融合して、イラン=イスラーム文化が形成された。14世紀にはイル=ハン国が衰え、替わってティムール帝国の支配がこの地におよんだ。

サファヴィー朝の出現

 15世紀になるとティムール帝国の支配は衰えウズベク人がその権力を奪ったが、この地はトルクメン人の遊牧部族をキジルバシュとして基盤とした神秘主義教団サファヴィー教団の勢力が強まり、イスマーイール1世がウズベク人を討って1501年にタブリーズを都にサファヴィー朝が成立した。
 しかしその頃、西方から勢力を及ぼしてきたオスマン帝国との間でこの地をめぐって抗争が始まり、1514年のチャルディランの戦いで敗れたサファヴィー朝は一時この地を明け渡した。サファヴィー朝のアッバース1世は都をイスファハーンに移して態勢を立て直し、タブリーズを奪回した。このサファヴィー朝は、スンナ派のオスマン帝国に対抗してシーア派を国教としたため、その支配が続いたことでこの地にもシーア派イスラーム教が定着した。

ロシアの侵出 アゼルバイジャンの南北分離

 18世紀末、イランに成立したカージャール朝の時代、19世紀から北方からのロシアの南下政策が激しくなり、1804~13年の第1次イラン=ロシア戦争でアゼルバイジャン北部領有を認めさせ(ゴレスターン条約)、26~28年の第2次イラン=ロシア戦争では1828年トルコマンチャーイ条約を結んでロシアはイランからアルメニアを獲得した。1870年代にはバクーの油田開発が始まり、有数の石油産地としてにわかに重要度を増した。こうしてアゼルバイジャンは北部をロシア、南部をイランに支配されるという南北分離の状況となった。このため、北部アゼルバイジャンの地がアゼルバイジャン共和国となるが、現在もイランには多くのアゼルバイジャン人が残っていいる。

アルメニア人の移住

 アゼルバイジャンがロシアに支配されていた間に、西からアルメニア人が移住し、ナゴルノ=カラバフなどで定住した。さらに第一次世界大戦中の1915年、オスマン帝国によるアルメニア人虐殺事件(トルコは現在も認めていないが)が起きると、難を逃れた多くのアルメニア人がアゼルバイジャンに移住し、現在に続く複雑な民族対立の要因がつくられた。

ロシア革命と社会主義国家の成立

 1917年、ロシア革命が起きたとき、コーカサス地方全域にも革命が波及し、社会主義国家の建設に向かったが、実際には民族的な対立から国境確定は困難を極め、流血を伴う対立が続いたが、民族主義の克服を掲げるボリシェヴィキは1918年4月にジョージア、アルメニアとアゼルバイジャンから成るザカフカース連邦共和国として独立した。しかし、異なる民族を融和させることは困難で間もなく連邦派機能しなくなり、1919年5月にはギャンジャを首都にしてアゼルバイジャン民主共和国が成立した。これはアゼルバイジャン人による最初の独立国家となったが、バクーの支配をめぐってイギリスやトルコの干渉もあって短命に終わり、1920年に赤軍がバクーを制圧し、ボリシェヴィキによるアゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国が成立した。1922年12月30日には、再びジョージア・アルメニアとともに南コーカサス三国から成るザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国を結成し、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)に加盟した。しかし、隣接していると言っても民族、伝統(特に宗教)が異なり、まだそれぞれが領内に少数民族を抱える連邦国家の運用は困難であった。結局、ザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国も解消され、1936年には南コーカサス三国はジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンに分離し、それぞれ独立した社会主義共和国としてソ連邦に再加盟した。

バクー 石油産業の興亡

 バクーで石油産業が実質的に始まったのは、19世紀初めのロシア帝国への編入後であったが、当時のロシアの低い技術のため産油量は多くなかった。だが1870年はじめ、ロシア政府が独占を放棄し、外国資本の参入を許すと急速な増産が始まり、大規模な油田を開発に成功したオイルバロン(石油王)が出現した。著名なノーベル家やロスチャイルド家家がその代表で両家はバクーで熾烈な競争を繰り返した。アゼルバイジャン人の中にも、ナギエフとかタギエフのような巨利を得た民族資本家が出た。彼らは病院や学校の建設など慈善事業の活動も行い社会の近代化、バクーの繁栄に尽くしたが、民衆からは批判的に見られるようになった。
ロシア革命とバクー 1920年、ボリシェヴィキがバクーを武力制圧するとオイルバロンの石油利権はすべて接収され、抵抗したオイルバロンは殺害されたり、自殺したりでその繁栄は終わりを告げ、その屋敷はバクーの歴史遺産として残されている。バクーがロシア革命の中心市の一つとなったのは、となりのジョージアのゴリで生まれたスターリンがこの地にもしばしば訪れていただけでなく、ロシア南部で工業都市として繁栄し、革命を支える工業労働者層を生み出していたこともその理由であった。
ソ連を支えたバクー油田 スターリンが進めたソ連の工業化、そして1941年~45年のナチス・ドイツの侵攻と戦い大祖国戦争と呼んだ第二次世界大戦における独ソ戦でのソ連の勝利を支えたのがバクーやチェチェンの石油であった。このようにバクーの石油資源は戦後のソ連を支えていたが、ソ連では1970年代にコーカサスの陸上油田はほぼ枯渇したと考えられ、石油開発の舞台はシベリアに移った。
 ところが、ペレストロイカを経て1991年にソ連が解体すると、状況が急変した。それは枯渇したとされていたバクーの陸上油田は、ソ連の採油技術が遅れていたため未開発の油田が残されていること、さらにカスピ海のバクー沖合に豊富な天然ガス層が存在することがわかったことであった。
「世紀の契約」 これはソ連から分離独立したアゼルバイジャンにとって朗報となり、1994年に欧米の石油会社との間でカスピ海沿岸の石油開発・生産に関する協定、いわゆる「世紀の契約」を締結し、30年間で340億ドル相当の石油開発が行われることとなった。課題は概要を持たないアゼルバイジャンが原油・天然ガスを輸出するためのパイプライン建設であり、対立するアルメニアを避けてジョージア・トルコを経由するラインの建設が計画されている。<廣瀬陽子『前掲書』p.24-31>

南アゼルバイジャンをめぐる危機

 第二次世界大戦中にソ連軍はイラン領の南アゼルバイジャンに進駐しタブリーズを占領した。1945年2月、ソ連軍の支援を受けた共産党がアゼルバイジャン自治共和国を樹立し、イランからの独立を宣言、またクルド人勢力はクルディスタン自治共和国を樹立した。イラン政府はイギリス・アメリカの支援を受けて、軍隊を派遣しそれらを阻止しようとしたので、第二次世界大戦後の東西冷戦の深刻化の中で「アゼルバイジャン危機」といわれた。国連の安保理でも問題となったため、ソ連軍は撤退し、アゼルバイジャン自治共和国、クルディスタン自治共和国は翌年崩壊した。タブリーズを中心とする南アゼルバイジャンでは、現在もイランに対する自治要求が続いている。

現在のアゼルバイジャン共和国

 1991年にソ連の解体に伴い、アゼルバイジャン共和国として分離独立し独立国家共同体のひとつとなった。広義のアゼルバイジャンの北半分を支配する。南半分はイラン領にとどまっている。首都はバクー。バクー油田を中心とした産油国で工業力が高いが、隣接するアルメニア共和国との間で、ナゴルノ=カラバフ地方(アゼルバイジャン国内にあるアルメニア人の居住地)をめぐって民族対立がある。またアルメニア領にもアゼルバイジャンの飛び地(ナヒチュバン地方)があり、両国は複雑な民族問題と国境問題を抱えている。その背景にはアゼルバイジャン人(アゼリー人)がイスラーム教徒(シーア派)、アルメニア人がキリスト教徒(アルメニア教会)であるという宗教的対立がある。さらに、アゼルバイジャン人はトルコ系、アルメニア人がインド=ヨーロッパ語系という違いもある。アルメニアは、特にナゴルノ=カラバフがアルメニア人居住者が多く、かつてのアルメニア王国の範囲に入っていたことを根拠に自国併合を主張している。

ナゴルノ=カラバフ紛争

ナゴルノ=カラバフ

ナゴルノ=カラバフで自治州の位置

 アゼルバイジャンのナゴルノ=カラバフ Nagorno-Karabakh 自治州は、古くからアゼルバイジャン人とアルメニア人が混在し、アルメニア人の方が多かったが、ロシア革命でボリシェヴィキ政権が樹立されるとスターリンの介入により、アゼルバイジャンに編入され、アルメニア人には自治権が与えられナゴルノ=カラバフ自治州となった。
 ソ連のゴルバチョフ政権の下でもアルメニアのナゴルノ=カラバフ併合の要求が強まったが、それが認められないと、アルメニア側ではアゼルバイジャンの飛び地であるナヒチュバンの経済封鎖を行い、民族対立は深まった。1988年から紛争が激化、両者によるテロの報復がたびたび行われ、犠牲者が増えていった。

アルメニア系住民の独立宣言

 1991年にはソ連の解体にともなう混乱のさなかに、アルメニア系の住民がナゴルノ=カラバフ共和国として独立を宣言、それを認めないアゼルバイジャンと支援するアルメニアの両国軍による事実上の戦争状態となった。戦闘はアルメニア軍の優勢のうちに、約3万人もの犠牲者を出し、ようやく1994年5月に、キルギスの首都ビシュケクで交渉が行われて停戦が成立した。その結果、アゼルバイジャンの主権は認められたが、ナゴルノ=カラバフには大幅な自治権が与えられた自治州となり、事実上の独立国家のような状態となっている。 → カフカス地方の紛争
 しかし、ナゴルノ=カラバフ自治州をめぐるアゼルバイジャンとアルメニアの対立は解消されておらず、欧州安全保障協力機構(OSCE)による調停にもかかわらず軍事的緊張は続き、2016年の衝突では双方で100人を超える犠牲者が出た。

NewS ナゴルノ=カラバフ軍事衝突

 2020年9月27日、ナゴルノ=カラバフで、アゼルバイジャン軍と自治州独立勢力が軍事衝突、駐屯するアルメニア軍とも抗戦した。軍事衝突と双方による空爆で一般市民も含め、少なくとも68人が死亡したと思われる。特に不安定要因となっているのは、アルメニアを非難しているトルコがアゼルバイジャンへの全面支援を表明していることであり、アルメニアとトルコの戦争に拡大することが懸念されている。国連のグテーレス事務総長、EU首脳、さらに米ソ首脳も両国に自重を要請している。10月に入っても収束していない。<2020/10/9> → AFPbbニュース

NewS 停戦成立か

 2020年10月10日のニュースによれば、ロシアのラブロフ外相がナゴルノ=カラバフをめぐるアゼルバイジャンとアルメニアの軍事衝突は、停戦の合意が成立したと発表した。双方は「欧州安全保障協力機構(OSCE)ミンスクグループ仲介の下、平和的解決を早期に達成するための実質的協議に入る」ことで一致し、戦闘を停止し、捕虜を交換することなどで合意した。交渉はロシアの仲介により双方の外相が10日未明まで約10時間の協議の末に、3国外相の共同声明として発表された。アゼルバイジャンは後ろ盾のトルコによる仲介を求めていたが、ロシアの仲介での停戦となったので、トルコの反発で停戦がこじれる恐れもある。停戦までに双方で約400人の犠牲者がでた。<時事通信 JIJI.com 2020/10/10>
 しかし、停戦合意後も双方の軍事行動は続き、犠牲者は公式発表では約970人に膨れ上がったが、ロシアのプーチン大統領は双方の死者数は5000人に達していると述べている。<朝日新聞 2020/10/24>

NewS 停戦合意にアルメニア国内で反発

 ロシアの仲介によって成立した停戦は2020年11月10日に発効し、それによってアルメニア側が占領したナゴルノ=カラバフ地方とアルメニアのあいだの地域をアゼルバイジャン側に返還することになった。しかし、それによってふたたびナゴルノ=カラバフ地方は飛地となり、アルメニア系住民はロシアの平和維持軍が設ける「通路」を通ってアルメニアにとの行き来をすることになる。そのためアルメニア人側には強い不満が残り、今回の停戦に応じたアルメニアのパシニャン首相に対する反発が強まっているという。野党は首都エレバンで大規模な停戦反対、首相糾弾の集会を開いており、合意履行に暗雲が生じているようだ。<朝日新聞 2020/11/12>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

廣瀬陽子
『アゼルバイジャン』
ユーラシア文庫5
2016 群像社