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プラハ

現在のチェコの首都。ベーメン王国、神聖ローマ帝国の首都としての歴史を持ち、東欧で最も繁栄した都市の一つ。またフス戦争、ベーメンの反乱などの宗教対立、チェコの民族運動、現代ではチェコ事件、プラハの春などの歴史的な出来事の舞台となった。

プラハ GoogleMap

チェック人の定住

 スラヴ人の中の西スラヴ人は6世紀ごろ、現在のチェコ(ボヘミア地方・モラヴィア地方)とスロヴァキアに東方から移住し、7世紀に多くの部族が連合して、「モラヴィア王国」を建設した。モラヴィア王国は9世紀には東フランク王国と対抗するなどの大国であったが、906年、東方から侵入したマジャール人によって滅ぼされた。マジャール人はさらに南西に進みハンガリーを建国するが、旧モラヴィア王国でマジャール人の支配が残った地域がスロヴァキアとなり、それ以外で東フランク(ついで神聖ローマ帝国)の支配下に入った人々がチェック人と言われ、分化していった。
モルダウ川(ヴルダヴァ川) そのチェック人が定住したのがプラハの町であった。プラハはモルダウ川(エルベ川の支流。チェコ語ではヴルタヴァ川)が大きく湾曲するところに臨み、北方はエルベ川からバルト沿岸の琥珀や毛皮、蠟などがもたらされ、北方はウィーンを中心としたドナウ川流域に至り、その地を通じて地中海方面から胡椒・香辛料、ワインなどがもたらされた。特に琥珀は古代から貴重品としてローマにもたらされ、その運ばれるルートは「琥珀の道」といわれた。プラハも琥珀の道の一中継地として繁栄し、下流のドイツ人との交易が盛んに行われた。<田中充子『プラハを歩く』2001 岩波新書 p.19>
 プラハを流れるモルダウ川は今もチェコ人の歴史のよりどころとして深く愛されており、19世紀の作曲家スメタナの作曲した交響詩『わが祖国』の第二曲『モルダウ』は国民的音楽とされている。 → スメタナ作曲 ラファエル・クーベリック指揮 チェコ・フィルハーモニー演奏 モルダウ

ベーメン王国の都

 チェック人は10世紀頃、プシェミスル家を指導者として民族的に自立し、プラハを中心としたベーメン(ボヘミア)地方にベーメン(ボヘミア)王国をつくった。ベーメン王国の最初の王とされるヴァーツラフ(在位921~929)はキリスト教を広めようとしたが反対する弟とその家臣によって暗殺されたため、後に聖人に列せられ「聖ヴァーツラフ」と言われる。聖ヴァーツラフはチェコの守護聖人として、国や民族が外敵に脅かされたとき、馬に乗った騎士姿で現れ、守ってくれると信じられている。
ヴァーツラフ広場 プラハの大通り、ヴァーツラフ広場はその名に由来し、騎馬の聖ヴァーツラフ像が建っている。この像は1913年に造られ、第一次世界大戦後の1918年には独立を求める人々で広場は埋め尽くされ、1968年のプラハの春でも多くのプラハ市民が集まり、ソ連の軍事介入に抗議したプラハ大学の学生が焼身自殺をした。1989年の東欧革命で市民が結集したのもこの広場だった。<河野純一『ハプスブルク三都物語』2009 中公新書 p.79-81>

神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国皇帝に従属する公国という扱いだった。1212年に神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世から領邦の一つであることが認められてプシュミスル朝ベーメン(ボヘミア)王国が成立すると、プラハはその首都とされた。1257年には皇帝から自治権を与えられ自治都市(帝国都市)となった。そのころベーメン王プシェミスル=オタカル2世は勢力を周辺に拡大し、最大の勢力をほこったが、1278年、ハプスブルク家のルードルフに破れて戦死し、神聖ローマ帝国の主導権はウィーンのハプスブルク家に移ることになった。

神聖ローマ皇帝カール4世

 14世紀にはプシェミスル朝が断絶し、ルクセンブルク家のカール4世ドイツ王であるとともにベーメン王を兼ね、さらに神聖ローマ皇帝(在位1347~78年)となったため、プラハは全ドイツ、神聖ローマ帝国の首都としての政治的中心地となった。カール4世は1348年には中部ヨーロッパでは最初の大学であるプラハ大学を創設し、1356年には「金印勅書」を発布して皇帝選挙の手続きを定めた。これによって成立した帝国議会もプラハで開催された。この頃のプラハの繁栄は「黄金のプラハ」と称されている。現在のプラハには「カレル橋」(カールのチェコ語表記がカレル)などカール4世にちなんだ地名が多いが、神聖ローマ皇帝であった彼は実際にはプラハにいることは少なく、ニュルンベルクなどドイツ各地を転々としていた。<プラハ大学(カレル大学)、カレル橋については、田中充子『プラハを歩く』2001 岩波新書に詳しい>
 その後、1483年、神聖ローマ皇帝位はハプスブルク家に移ると、その政治の中心はその本拠地ウィーンに移り、プラハの繁栄は次第に失われていった。

ヨハネス=フスとフス戦争

 カール4世の時代は西ヨーロッパでは百年戦争が展開されており、ローマ=カトリック教会でも教会の大分裂があってその権威が低下するなど、社会の大きな転換期であった。15世紀に入るとプラハ大学出身の修道士ヤン=フスはイギリスのウィクリフの影響を受けてローマカトリック教会を厳しく批判し、聖書に基づく信仰をかかげて教会の改革運動を開始した。このルターの宗教改革の先駆となった動きの中心となったのが、プラハ大学であった。
ローマ教会は1414年コンスタンツ公会議でフスを異端と断定して、翌年に処刑すると、プラハのフス派市民は強く反発し、1419年に神聖ローマ皇帝の派遣する軍隊との間で激しいフス戦争が始まった。フス派のプラハ市民と封建領主は15年以上にわたるドイツ皇帝との戦いを続けたが、急進派と穏健派に分裂したこともあって次第に劣勢となり、1436年にドイツ皇帝とフス派穏健派の講和によって収束した。しかしその後もフス派は存続し、16世紀の宗教改革期に勢いを盛り返し、三十年戦争ではプロテスタントと共に闘った。

宗教改革の時代

 1517年にドイツでルターによる宗教改革が始まると、ドイツでは激しい宗教対立が起こり、ドイツ農民戦争宗教戦争が相次いだ。その間、ベーメンの支配権はハプスブルク家の皇帝フェルディナント1世(カール5世の弟)が継承し、プラハはその後長くオーストリア・ウィーンの神聖ローマ皇帝ハプスブルク家に支配されることとなる。
 ドイツの宗教対立は、フェルディナント1世の時、1555年アウクスブルクの和議が成立して新教が認められて一応の終結となり、、「領主の宗教、その地で行われる」が原則とされることになった。
 ベーメンでも新教徒の領主の下ではプロテスタントが公認され、ハプスブルク家の皇帝もしばらくの間は宗教での寛容策をとった。ボヘミア王を兼ねた皇帝ルードルフ2世(在位1576~1612)は、ハプスブルク家の宮廷をプラハに移し、プラハはヨーロッパの文化の中心として最も華やかな時代を迎えた。天文学者ヨハネス=ケプラーもこの時期、プラハ城に滞在している。このような文化的寛容の時期に、一定の信仰の自由が認められたことでフス派(穏健派)の活動も復活し、彼らはプロテスタントに合流して教会改革を進めようとした。

三十年戦争の時代

 ところが1617年にベーメン王となった神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は、カトリック信仰を住民に強制しようとした。彼はカトリックを強制しただけでなくプロテスタントを弾圧、同時にチェコ語に代えてドイツ語を強制しようとした。
プラハの役人窓外投げ出し事件 この信仰の自由と民族性の否定に対して強く反発したプラハの新教徒貴族は1618年5月、皇帝の代官を役所の窓から投げ捨てるという挙に出た。このプラハの役人窓外投げ出し事件※をきっかけに皇帝のプロテスタント弾圧が強まると、反発したベーメンの民衆が蜂起しベーメンの反乱が始まった。これが1618年から30年にわたり、ドイツ全土を戦場とし、新教徒と旧教徒が争い、デンマーク、スウェーデン、フランス、スペインという周辺国が介入して国際的な長期紛争となったに三十年戦争の発端であった。
※同様の役人窓外投げ捨て事件は、フス戦争の時も起きている。
新教徒の敗北 新教徒の諸邦・諸侯は連合(ユニオン)を結成、旧教勢力は同盟(リガ)を組織して二陣営に別れた内戦は、1620年、プラハ近郊の丘ビーラー=ホラで決戦となったが、スペインからの援軍を受けた皇帝軍が勝利し、翌年6月21日、プラハの旧市街広場で反乱首謀者27名が処刑されてプロテスタントの反乱は終わった。今のプラハの旧市街広場には処刑された27人のプロテスタント指導者の数を示す十字型のモザイクが27ヶ所残されている。
 この結果、ベーメンの新教徒はカトリックへの改宗を迫られ、拒否したものは国外追放となった。フス以来の教会改革の流れはここで終焉となり、新教徒の拠点だったプラハはカトリックの街へと変貌した。
ヴァレンシュタインの宮殿 ベーメンでの宗教戦争は終焉となったが、ドイツの宗教対立は新たな段階に入り、新教国デンマークのクリスティアン4世が介入、それをカトリック側は傭兵隊長ヴァレンシュタインが迎え撃つという国際的な戦争へと転換し、三十年戦争はさらに継続することとなった。このカトリック側の傭兵ヴァレンシュタインは、プラハを拠点としており、その住まいは今もヴァルトシュタイン(ヴァレンシュタインのチェコ語表記)宮殿として残っている。宮殿は1629年に建てられ、イタリア風の庭園には5つの中庭、池と噴水、乗馬学校や人工の鍾乳洞まである広大なものだ。この土地はプロテスタント側の貴族のものだったのを、ハプスブルク皇帝の勝利に貢献したヴァレンシュタインに与えられたものであった。

長いハプスブルク家の支配

 15世紀に始まるオーストリア帝国・ハプスブルク家のプラハ支配はその後も長く続いた。その中で中欧でも高い経済力、産業基盤を持っていたプラハは、帝国内で最も進んだ工業・産業都市として存在し、産業資本家が生まれるとともに民族的自覚も強まっていった。  フランス革命から始まった自由・平等の思想は、いったんウィーン体制の時代に逆戻りしたが、ヨーロッパ各地での自由主義・民族主義の動きは、ついに1848年革命として爆発し、オーストリアのウィーンでも三月革命となった。これはハプスブルク家支配下の諸民族が立ち上がった諸国民の春であった。
 プラハでもスラブ系民族の統一をめざす民族主義者パラツキーに指導されベーメン民族運動が起こり、スラヴ民族会議を召集した。しかし、ウィーンのオーストリア政府が武力制圧に乗り出し、この運動は鎮圧されてしまった。パラツキ-らに代わり1870年代からは青年チェコ党が運動の中心となり、特にチェコ語の公用語化を求める運動を展開した。チェコ語の公用語としての使用を認めず、ドイツ語のみを強要するオーストリア政府に対し、プラハも含む各地で暴動が起こったが、抑えられた。

チェコスロヴァキアの独立

 チェック人の民族独立の要求は第一次世界大戦を機会に、一気に高まった。独立運動の指導者でプラハ大学の哲学教授であったマサリクは世界にチェコ人の独立を訴え、1919年にはプラハで大規模な民族独立を求める集会がもたれ、ついに1919年にチェコスロヴァキア共和国が独立した。これは第一共和国とも言われる。

ナチスドイツによる解体

 チェコスロヴァキア(第一)共和国のその後の歴史は苦難の連続であった。マサリクを初代大統領として同じ西スラブ人のスロヴァキアとともに一個の共和国として独立したものの、両者の対立は次第に表面化していった。戦間期の厳しい国際関係の中で、ドイツで1933年に政権を獲得したヒトラーは、東方への進出を掲げ、チェコスロヴァキアに対しズデーテン地方の割譲を要求、1938年9月29日ミュンヘン会議でチェコスロヴァキア代表が参加しないまま承認され、ヒトラーは1938年10月1日、ズデーテンにドイツ軍を進駐させて併合した。さらに1939年3月、残りの本土の西半分のベーメン(ボヘミア)モラヴィア(メーレン)はドイツの保護領となった。東半分のスロヴァキアは独立国として残ったが、チェコスロヴァキアは解体されてしまった。
 第二次世界大戦が始まるとベネシュ大統領は亡命政府を結成、ドイツ占領下のプラハではゲリラ戦術をとる抵抗運動が展開された。亡命政府と共産党は連携して抵抗運動を続けた。

独立後の試練

 ついに1945年5月8日、ナチス=ドイツが敗北し、チェコスロヴァキアは解放されたが、再建されたチェコスロヴァキア共和国の方向性を巡って政府と共産党の間に深刻な対立が生じた。ソ連と共産勢力の浸透を抑えるためにアメリカがマーシャル=プランを発表すると、政府はその受け入れを表明、反対した共産党は1948年2月チェコスロヴァキアのクーデターを実行して権力を奪取、チェコスロヴァキアには共産党政権が成立し、チェコスロヴァキア社会主義共和国となった。

社会主義下のプラハ

 チェコスロヴァキアはソ連の衛星国としてコメコンワルシャワ条約機構に加盟し、社会主義化が強行されてスターリン体制下に置かれた。しかし、東欧の社会主義国が性急な社会主義化、硬直した官僚主義の下に置かれていたのに対し、プラハは高度な技術と資本の蓄積があり、政治的にも議会制民主主義を経験していたので、一定の経済の安定と自由を維持していた。
 1950年代後半、スターリン批判が始まると、60年代に入りチェコスロヴァキアの民主化運動が表面化し、知識人や学生が民主化を強く要求するようになった。

プラハの春

 1968年4月に共産党第一書記ドプチェクが「人間の顔をした社会主義」を打ち出し、大胆な言論・結社の自由、市場経済の導入などを打ち出すと、プラハの春といわれる民主化の機運が一気に進んだ。それに対して、ソ連(ブレジネフ政権)と他のワルシャワ条約機構の5カ国軍は1968年8月に軍事介入してプラハに侵攻、改革を弾圧した。このチェコ事件は、世界に衝撃を与え、ソ連の強硬な姿勢に対する国際的非難が高まった。
「8月を忘れるな」ヴァーツラフ広場 ソ連軍の戦車は8月20日深夜から21日にかけてヴァーツラフ広場を占拠し、「プラハの春」は無残に打ち砕かれた。
(引用)聖ヴァーツラフ像の前方に、このソ連軍の侵攻に抗議して焼身自殺したヤン・パラフの遺影がある。彼は「絶望の淵にある民族を解放するため、焼身自殺という非常手段を取ることにした・・・・。8月を忘れるな!」という遺書を残して死んだ。さらに、これに衝撃を受けた男女18人もの若者が、さまざまな方法で連鎖的に自殺していった。そうして、ヴァーツラフ広場はソ連の軍事介入にたいする抵抗のシンボルとなった。パラフの遺影の前にはいつも花が捧げられている。広場は「永遠の花」なのだ。<田中充子『プラハを歩く』2001 岩波新書 p.173>

その後の民主化運動

 チェコの民主化運動は、1970~80年代もハヴェルなど知識人による「憲章77」の運動として継承されたが、弾圧が続き、民主化は進まなかった。そのような中、ソ連でゴルバチョフのペレストロイカが始まると、一気に東欧諸国の民主化が進み、1989年の一連の東欧革命となった。プラハでもヴァーツラフ広場で大規模な市民集会が開催されハヴェルを中心に結成された「民主フォーラム」への政権移譲をソ連も認めざるを得なくなった。こらはほとんど暴力を伴わない「ビロード革命」といわれた。

チェコとスロヴァキアの分離

 こうしてチェコスロバキアの民主化が達成されたが、大きな流れとなった民族の自治の要求も止めることはできず、1992年にチェコとスロヴァキアの分離を議会で議決され、1993年1月1日にチェコとスロヴァキアはまったく別な国となった。プラハはチェコの首都として再出発することとなった。
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書籍案内

田中充子
『プラハを歩く』
2001 岩波新書

河野純一
『ハプスブルク三都物語』
2009 中公新書
CD案内

スメタナ
『わが祖国』
カレル=アンチェル指揮
トロント・フィル/チェコ・フィル