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徴兵制

1793年、フランスの国民公会で国民から兵士を徴発動員する徴兵制度を決定した。これによって中世の傭兵制度にかわる近代国家の国民軍が創設された。農村では徴兵に反対してヴァンデーの反乱が起こった。

 フランス革命が進行する中、王政を革命から守るための外国からの干渉が強まると、革命を防衛するための戦争が始まった。1792年4月の対オーストリア開戦に始まり、オーストリア・プロイセン・フランス亡命貴族の連合軍との戦争―フランス革命戦争ともいう―が続いた。当初は革命派が呼びかけに応じて自ら志願したサンキュロットなどの義勇兵が主力となり、92年9月のヴァルミーの戦いの勝利をもたらした。さらに1793年初頭のルイ16世処刑、フランス軍のベルギー占領などにたいして、イギリスを中心とした対仏大同盟(第1回)が結成され、イギリス・オランダ・スペインなどに対して宣戦布告し、ほぼ全ヨーロッパと戦うことになった。

徴兵制の制定

 このような戦線の拡大に対して、1793年2月22目に国民公会は一般国民から兵士を徴募(ただし独身者のみ)することを決議した。当初は、30万人の必要兵士数を自治体に割りあて、抽籤によって兵士を選定することとした。
 ついで、8月23日には「国民総動員令(国民総徴兵法ともいう)」が成立、18歳から25歳までの青年男子全員を動員し、百万人規模の国民皆兵の態勢に入った。この国民皆兵体制の創設には公安委員会のサン=ジュストとカルノーがあたった。さらに1798年には徴兵制度が成立する。

徴兵制の意義

 絶対主義諸国間の戦争は、主として君主が金銭で兵士を雇ってくる傭兵で戦われていた。戦争は国民とは関係のないところで行われていたわけで、各国の将軍たちも戦闘も全面的な対決を避け、いかに戦わずして相手を威圧するかを作戦の主眼にすえ、実際に戦闘が行われても、傭兵は不利とみると戦場を勝手に離脱してしまうことが多かった。そのような傭兵主体の戦いの様相を一変させたのが、フランス革命で登場した徴兵制による国民皆兵の軍隊であった。彼らは個人的な損得ではなく、国家や革命の存続を担って、戦争に従軍し、しかも全面的な戦闘を挑んだ。このような徴兵による近代的な常備軍の制度はフランス革命期から始まる。 → 国民軍の形成(フランス)

革命軍の性格

 革命政府は国民軍内部の体罰や身分差別を撤廃し、革命軍としての戦闘意欲を高めることに成功した。また能力本意で将軍を抜擢し、貴族出身の将校は退けられ、兵士の選挙で才能あるものが昇進し、有能な下士官から公安委員会が将軍に抜擢した。その中から、オシュ、ジュルダン、ネイ、そしてナポレオンなどの名将が出現することになる。

徴兵制反対の農民反乱

 しかしこの強制的な兵士徴募には、革命気運の高まっていた都市では受け入れられたが、都市から離れた農村部では反発が強く、3月にはヴァンデーの農民反乱が起こり、革命政府はその弾圧に苦慮した。このヴァンデー地方の農民反乱は反革命の運動の一つとして1798年までくすぶり続けた。

ナポレオン戦争時代の兵士

 フランス革命で始まったフランスの徴兵制は、革命戦争から引き続いて起こったナポレオン戦争でさらに拡充された。革命に対する干渉軍との戦いの中から国民意識が醸成され、国民皆兵の思想のもと、徴兵制がその手段として用いられ、徴発された兵士はナポレオンの帝国支配を全ヨーロッパに及ぼそうという野心のために“消耗“していった。特に1812年のロシア遠征は、徴兵によって動員された多くのフランスの若者がプロイセンやポーランド、敵であるロシアの兵士とともに多数が犠牲となる無益な戦争であった。
 ロシア遠征時のナポレオン軍・フランス軍の徴兵制および兵士がどのような状況であったは両角良彦氏『1812年の雪』に描かれているので、長くなるが引用、紹介しておく。
(引用)フランスの徴兵制はもともと革命の産物であって、1793年2月14日と1799年8月25日の執政政府命令によって制定された。兵役義務は20歳から25歳の壮丁に課し、平時は5年、戦時は無期限となっていたが、後に兵員不足のため18歳に繰り下げられた。
 適齢者のうち徴兵される者は、町村役場で軍楽隊の演奏も賑やかに行われた籤引きで選ばれた。籤に当たる率は当初は農村で15人に一人、都市で7人に一人の低率だったが、歴戦により兵力補充が緊要となるにつれ、次第に高率となり、1813年にはもはや単なる形式に化し、殆どの壮丁が当たるようになる。
 籤に当たった者の身体検査では、1メートル54センチ以上はすべて合格とした。身体の故障を訴える者は厳格な審査委員会の確認を経なければならない。
 軍隊に入れば、生きて還る確率はまず三分の一と見られていたから、人々は知恵をしぼって召集をのがれる方策を講じた。最も簡単なのは、既婚者は兵役義務を免除されるというので、慌てて結婚するやり方で、18歳の男子が60歳の女性と結ばれた例さえある。
 若者たちは自ら肉体を損なうことさえやってのけた。例えば前歯を折ったりしたが、当時の先込め銃では鉛弾と火薬は分かれており、装填には火薬の紙包みを歯で食い破るのだが、前歯が欠けてはそれができない。また親指を切り落とす者もいたが、これで銃の操作はやれなくなる。発泡薬で腕や腿の皮膚を傷け、そこに砒素をとかした湿布を当てて筋肉を麻痺させるやり方もあった。自ら足を折る者、甚だしきは片目を潰す者さえ現れた。徴兵逃れといっても、それは生易しいものではなかった。
 金持は大金を投じて医師を買収し、内科的な疾患の証明書を手に入れたり、役場の書記から年齢を偽った戸籍証明を交付してもらった。中にはにせの死亡証明の発給を受け、本人を逃亡させて、家族、親族はもっともらしく葬儀を営んだりした。
 ひとたび応召と定まると、入営を逃れるには二つの方法しか残らない。替え玉を傭うか、逃亡するかである。……<両角良彦『1812年の雪―モスクワからの敗走』初刊1980 筑摩書房 p.18-21>

Episode フランスの「血税」

 フランス革命の最中、1792年にニースはフランス領になった。革命政府は1793年に徴兵制を定め、ニースに対しても義務徴兵制が導入された。サルデーニャ王国への帰属意識を根こそぎにしてフランスのために戦うことを求められたが、フランスはその時、義務徴兵制を「血税」impôt du sang と呼んだ。
 それはフランスの法律用語であったが、日本でも明治政府が1872年に「徴兵告諭」を出したとき、義務徴兵制を意味する sang =血、impôt =税をそのまま翻訳して「血税」と表現した。それまで武器を持つことを禁止されていた農民は、文字どおり血を採られることと思って徴兵に反対する「血税一揆」が翌年春の岡山県で起こっている。その一揆では、唐人さんと呼ばれた西洋人が飲んでいる赤ぶどう酒は徴兵でとられた若者の血だ、という風評があった。民衆の徴兵制に対する抵抗の表れであった。<藤澤房俊『ガリバルディ』2016 中公新書 p.14-15>
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