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イグナティウス=ロヨラ

スペインに生まれ、カトリック信仰の情熱から宗教改革に対抗して、1534年にイエズス会を発足させ、1540年、ローマ教皇公認の宣教師団を組織。初代総長。対抗宗教改革運動を進め、ザビエルら多くの宣教師が世界布教に赴いた。

 イグナティウス=デ=ロヨラ Ignatius de Loyora 1491?~1556 はスペインの北部バスク地方の地方騎士の家に生まれ、フランス軍の侵攻の際に右足を負傷。霊感に導かれて巡礼を重ね、パリ大学で神学・人文学を学び、カトリックへの深い信仰心から1534年フランシスコ=ザビエルなど6人の同志を得てイエズス会を結成、ローマ教皇への徹底した服従と、伝道に徹することを誓った。イエズス会は、1540年にローマ教皇から修道士会として公認され、ロヨラはその初代総長として宣教師の育成に努め、世界各地、特にアジアとアメリカ新大陸にキリスト教宣教師を派遣した。1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたザビエルはその一人だった。イエズス会の活動は、宗教改革後のプロテスタントに対抗してカトリック信仰を復興させる対抗宗教改革のひとつであったが、そのためにとられた海外布教という戦略は、スペインやポルトガルの海外進出と結びついて、その植民地支配を助ける側面もあった。

ロヨラの生涯

 イグナティウス=デ=ロヨラは、1491年ごろ、スペインの北部、ビスケー湾に面したバスク地方、サンセバスチャンに近いところにあった小貴族の舘、ロヨラ城で生まれた。最初の名はイニェゴで、イグナティウスというのはパリ大学で学んでいた時に、ローマ時代に殉教した聖イグナティウスへの崇敬から名のるようになった。1517年、ドイツでルター宗教改革の声を上げた時、ロヨラは26歳で、スペインのカトリック両王の廷臣に仕える騎士として若い頃から武芸に励み、騎士の一人としてスペインの軍務についた。<以下、ロヨラの自伝『ある巡礼者の物語』岩波文庫/佐藤彰一『宣教のヨーロッパ』2018 中公新書 p.61-71 などにより構成>

内面の覚醒

 1521年、フランス王フランソワ1世カルロス1世(カール5世)とのイタリア戦争(狭義)を開始、イタリアとともにスペインに侵攻した際、パンプローナの防衛戦に加わり、大砲の砲弾を受けて右足を粉砕されるという戦傷を負い、生涯右足は不自由であった。
(引用)かれは26歳まで、この世の虚栄を追求する人間だった。特に名誉を獲得しようとの空しい欲望に激しくかられ、武術の修行に喜んで励んでいた。その頃、かれがある城塞にいたとき、強大なフランス軍が攻撃してきた。……かれは城主にいろいろな理由を述べ、他のすべての騎士が反対意見であったにもかかわらず、城主を説得して、防衛を決意させた。……長い間戦闘が続いた後、一発の砲弾がかれの脚に命中した。片脚全体が砕かれ、弾丸が両脚の間を突き抜けたので、他の脚も深傷を負った。<ロヨラ自伝『ある巡礼者の物語』岩波文庫 p.15>
 脚をばらして骨々を正常な位置に戻す手術を受け、一時は死の寸前まで行ったがなんとか命は助かった。脚は不格好に曲がり、短くなってしまい、騎士として活躍する望みは失われた。病床で『キリストの生涯』や聖人伝を読むうちに心の安らぎを感じるようになった。
(引用)世俗的な事柄を夢中で考えている間は大きな快楽を味わったが、その考えに飽きて止めてしまうと、うらぶれた、空しさに満たされた。ところが、裸足でエルサレム(イェルサレム)に行き、野菜以外何も食べず、聖人たちがなしたことよりも、よりいっそう苛酷な苦行をなそうという思いに留まっている間、慰めを覚えるだけでなく、その考えを止めた後でさえも、心が満たされ、快活であり続けた。<ロヨラ『前掲書』 p.27>
 その違いをじっくり反省するうち、悪魔の霊と神の霊の差異を弁別するようになった。これが「霊操」のはじまりであった。そのうちに幼児イエスを抱いたマリアの姿をはっきりと見るという示現(じげん)とともに強烈な慰めを受け、同時に過去の生活全体、特に肉欲に関する事柄に強度な嫌悪を覚えた。この時以来、肉欲の事柄にわずかな承諾も決して与えることなかった。体力の癒えたロヨラは、ラバに乗ってロヨラ城を出立、巡礼の旅を開始、「世俗の騎士」から「キリストの騎士」への変貌を遂げていく。モンセラート修道院で有名な「黒いマリア像」の前で徹夜の勤行に励み、次第に霊的な力を自覚するようになり「神への信仰は聖書が存在しなくても、確固たる内奥に定まることを神によって直接に教えられた」と確信するようになった。モンセラートからマンレサへ、巡礼と祈り・苦行・清貧の生活を続けながら、さまざまな誘惑にうちかつ体験をかさね、次第に「霊性」にめざめていく。その過程を後にまとめたのが、ロヨラの主著であり、イエズス会士の指針として読み継がれる書となる『霊操』である。
 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18章3節)と聖書にあるよう「神は小学校の先生が幼い生徒に優しく接し導くように、かれに接し、教え導かれた。」
 その間、ロヨラは三位一体や天地創造といったキリスト教の原理も知性の高まりでそれが示現するのを観ることができるようになるとともに、極端な行動を避けるようになった。またイエスの姿が示現するのを観るようになった。それらの臨死体験を通じて、自分は義人と思い上がり、虚栄心が残っているのではないかという悩みに囚われた。その悩みを解決するために、聖地イェルサレムへの巡礼を思い立った。

イェルサレムへの巡礼と帰国

 バルセロナから乾パンだけをもって無料乗船させてくれる船を探し、ローマをめざした。イタリアでも何も持たず、物乞いだけで旅し、度々苦難に遭遇した。かれの無一文でイェルサレムに行くという企てにはあらゆる人が反対した。そのつど、聖地にまでたどり着くかどうかは神の意志に従うだけであると反対を押し切り、苦難に耐えながらヴェネツィアについた。
(引用)ヴェネツィアでは物乞いをしながら生活し、夜は聖マルコ大聖堂の広場で寝た。スペイン皇帝の大使の家には一度も行こうとしたことはなく、渡航できるための費用を探す特別な努力もしなかった。神がエルサレムに行くための手段を与えてくれるに違いないとの確固不抜な確証が魂の底に据わっていた。だから、人びとがどんな理由で挙げ、恐怖を起こさせようとしてもかれに疑いを抱かせることは決してなかった。<ロヨラ『前掲書』 p.100>
 1523年、偶然に出会ったスペイン人の金持ちの男の親切で、ヴェネツィアの公爵の船に乗せてもらい、キプロス島経由でヤッファに上陸し、ロバに乗ってイェルサレムに到着した。ロヨラを迎えたフランチェスコ会の修道士の管区長は、イェルサレムでの滞在を許さなかった。巡礼※のあるものは殺され、あるものは捕虜となり、その囚われた人を買い戻すために修道会の財政は苦しく、これ以上巡礼の滞在を認めるわけにはいかない、ということだった。ロヨラは、何者も恐れるものはないが、それが教皇の意向なら従うしかないと判断、帰国を決意した。その前に一度だけオリーヴ山のイエスの足跡だけを観たいと考え、管区長に無断で出かけ、その足跡の向きを確認して喜びにひたった。ロヨラが修道院に帰ると、無断で出かけたことに怒った修道士は彼を捕らえ、強制送還となった。帰りの船旅では嵐に合い、ようやく上陸できたものの真冬で雪道を上着とズボン、裸の両脚に長くづをはいただけで歩いた。 ※聖地イェルサレムへの巡礼は、十字軍時代以後も、マムルーク朝が比較的寛容だったので続いていたが、1517年オスマン帝国がそれを滅ぼし、パレスチナを支配するようになったため、次第に困難になっていた。また1522年にはオスマン帝国がそれまで巡礼の中継地になっていたロードス島を征服したため、海上でも巡礼は困難になっていた。

イタリア戦争の戦場を歩く

 ヴェネツィアに戻ったロヨラは、歩いてバルセロナを目指した。1524年、フェララに向かう途中、ちょうど神聖ローマ皇帝(カルロス1世/カール5世)とフランス王(フランソワ1世)はイタリア戦争で交戦中で、両軍の間を平然と歩いていたロヨラはスペイン兵にスパイと間違われ、司令官のもとに連行された。しかし司令官は彼を気が触れた人間だと判断して釈放、ロヨラはバルセロナに帰り着いた。

ラテン語の暗記に苦労する

 ロヨラは、エルサレムにとどまれなかったことは神の意志だったとすれば、この地で人びとを霊的に助けなければならないと考えるようになった。しかしそのためには自分には勉学が不足していることに気づいた。まだラテン語を自由に読み書き話すことができなかった。
(引用)バルセローナに戻り、非常な熱心さで勉強し始めた。しかし、一つのことが大変大きな障害を与えた。暗記することはラテン語文法学習の初期では絶対に必要なことである。ところが、かれが暗記し始めると、霊的事柄について新しい知解と新しい霊的味覚が彼の心に生まれてきて、暗記することができない。それだけはなく、追い出そうとすればするほど、反発が非常に強くなって、かえって追い出すことができなくなった。<ロヨラ『前掲書』 p.100>
 ロヨラは勉学そのものが人間全体を要求する営みであり、それ自体が節欲と苦行を伴うものであることを悟り、それからは勉学に集中し、二年間のラテン語の勉強を終えた後、アルカラに赴き物乞いしながら人文学を学んだ。

異端の疑いをかけられる

 1年半ほど学び、バルセローナに帰り、さらに自然哲学を学びながら霊操を人々に与え、貧者を救済した。その活動が知られるようになるとトレドの宗教裁判所の審問官の耳に入った。審問官はロヨラを異端の疑いで取り調べ、その疑いはないと結論を出したが、異端と疑われるような服装や靴を履かないことなどはあらためよ、と命じた。ロヨラはそれに従ったが、ある夜、ロヨラに傾倒していた貴婦人の一人がベールを付けずにロヨラのいた慈善病院に入ったのを見とがめられて逮捕され、42日間にわたって投獄された。ようやく疑いは晴れ、トレドの大司教の助言と援助でサラマンカに向かった。
 しかしサラマンカではドミニコ会士の修道院長から再び「世界をだましたエラスムスやその他の人びとの誤謬が広まっている現在、あなたは自分が言ったことをどうして説明できるのですか」と厳しく迫られた。ロヨラはエラスムス派の改革派と思われたのだ。今度も宗教裁判にかけられ投獄されたが、ロヨラは投獄は神の愛によるものとむしろ喜んだ。22日間の拘留ののちに下された判決は、異端ではないという判断であったが、なお4年間の経過を見て大罪か小罪かを決定する、というものだった。この拘留されている間にロヨラは釈放されたら、パリに行って本格的に勉学し、そこで霊性を持った同志を募り、霊魂救済のための団体を作ろうと決心した。

Episode 37歳で大学生となる

 当時はまさに神聖ローマ皇帝(兼スペイン王)とフランス王の戦争の最中であるから、サラマンカの人びとはスペイン人がパリに行くと言うことは危険極まりく、スペイン人は火あぶりにされるとまで言ってパリ行きに反対したが、ロヨラは「どんな恐れの素振りも示さず」旅だった。
 1528年2月頃、パリに到着した。すでに37歳になっていた。スペイン人の家に身を寄せモンテアグ(モンテギュー)学寮に学生登録をした。この学院はエラスムスカルヴァンラブレーが学んだところであった。まもなく聖ヤコブ病院に住み、前と同じく物乞いによって生活を維持しながら、学院ではまずよい先生と霊性のある同志を求めた。
(引用)次のようなことを独りで熟慮し、決心すると、慰めを覚えた。それは、先生はキリストと想像し、同級生のある人に聖ペトロの名を、他の人には聖ヨハネの名を付け、一人ひとりに使徒の名を与え、教授が自分に命令したときは、キリストが自分に命令したと思い、学生の一人が命ずるときは、聖ペトロが命じたものと思うことにしようとの決心だった。<ロヨラ『前掲書』 p.160>
 勉学の費用に充てるためツテを頼ってフランドルやロンドンまで足を運び、自分の分だけでなく、同志となった学生の分も捻出した。ロヨラが霊操を授けた二人の学生は、優れた人物だったが、熱心のあまり、教授に戦いを挑んだ。当時、パリ大学神学部は新しい思想運動に直面し激しく揺れ動いていた。1521年、神学部はルターに対して反対声明を出し、1523年にはルターの書物が燃やされ、ロヨラがパリに来たころは、保守派と進歩派(ルター同情派)・エラスムス派に分かれて対立が巻き起こっていた。保守派の教授デ・ゴベアはロヨラを学生たちの誘惑者として特別な部屋にぶち込もうとした。ロヨラは自ら裁判所に出頭し、自分は哲学の学問をしたいだけだと申し出た。結局裁判にはけられず、ロヨラは哲学の勉強を開始した。この頃既にロヨラの『霊操』はかなり読まれており、ロヨラは「神のことしか話さない」と知られていたからであった。落ち着いて勉強できるようになった頃、ペドロ=ファーベル(フランス人)とフランシスコ=ザビエルと知り合い、二人は霊操を通じて神への奉仕に献身するようになった。二人を含むスペイン人とポルトガル人の7人が同志となった。彼らはパリ大学での勉学の合間を縫って、イグナティウスが創案した『霊操』を実践した。

パリでイエズス会を結成

 ロヨラは長い間胃痛に苦しめられていた。またペスト患者にじかに手をふれて祈ったこともあり、病は哲学の勉強中も進んだ。やがて医者も衰弱が進んだロヨラに故郷に帰って療養を勧めるようになった。そんなころ、1534年8月15日、パリの市壁の外にあったモンマルトルの丘にある礼拝堂で、イグナティウスら7人は、清貧と貞節を永遠に近い、学業を終えたらイェルサレムに巡礼をすること、もしそれができなかったら、ローマに行き、キリストの代理者であるローマ教皇に謁見し、より大きな神の栄光と霊魂の利益の為になると判断されたところのどこへでも自分たちを派遣してくれるよう願い出ることを決定した。これが「イエズス会」の母体になる団体の結成であった。
 1535年に哲学の課程を終え博士号の学位を得たロヨラは44歳になっていた。スペインに一時帰り、そこで『霊操』を実践する仲間をリクルートし、新しい仲間3人を加えて9人となり、革製の頭陀袋に聖書と筆記用具と僅かな着替えだけを入れただけで旅し、1537年に苦労の末にヴェネツィアに着いた。そこからイェルサレムに向かうおうとしたが、このころ地中海にはバルバロスの名で知られた海賊が横行し、オスマン帝国のスルタンとの関係の悪化(1538年、プレヴェザの海戦となる)から、聖地に向かう船は当分出航しないと知り、一行はローマに向かった。
 イエズス会という名は、ロヨラがローマにいたとき、肩に十字架を担われたキリストがロヨラの前に顕れ、神の声で「汝(キリスト)はこの者(ロヨラ)を僕とすることを我は望む」との声が聞こえた。するとイエスはロヨラに「汝が我らに仕えることを我は望む」と言った。そこでロヨラは父なる神とイエス・キリストが自分と同志たちを「イエスの友」として選ばれたのだと悟り、そこから修道会の名を「イエスの友の会(la Compañía de jesús)」と名づけた、という。<ロヨラ『前掲書』 門脇氏の解説文 p.199>

教皇の承認による正式な発足

 ローマでロヨラらは、ローマ教皇の僕として仕えることを願い出た。そして教皇に直接従属する会派を結成し、宣教に出ることを決定し、ロヨラが会の憲章である「会派信条」を作成し、ついに1540年9月27日にローマ教皇パウルス3世は教皇勅書でその会派信条を承認し、イエズス会が正式に発足することとなった。<佐藤彰一『宣教のヨーロッパ』2018 中公新書 p.61-71>

その死

 ロヨラは1541年にイエズス会総長に就任したあと、その死までほとんどローマを離れなかった。1556年の彼の死の段階で、イエズス会士は教皇から承認されたときに10人だったものが、およそ1000人になっていた。その活動は、ヨーロッパ、アフリカ、南アメリカ、アジアに展開していた。
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イグナティオ=デ=ロヨラ
門脇佳吉訳
『ある巡礼者の物語』
2000 岩波文庫

佐藤彰一
『宣教のヨーロッパ』
2018 中公新書