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クリミア半島

黒海に突き出た半島で、15世紀以降、オスマン帝国の支配下にあったが、18世紀を通じロシアが進出し、クリミア戦争となった。ソ連ではウクライナの管轄となり、1991年のウクライナの独立でもその一部となった。ウクライナ人より多数を占めるロシア系住民は、2014年一方的に住民投票を実施してロシア編入を宣言、国際的な非難が持ち上がっている。

クリミア半島

クリミア半島 Yahoo Map

 クリミア半島は南ロシア平原から、黒海につきだした、三角形の半島。紀元前8世紀には、騎馬遊牧民のスキタイが活動し、次いでギリシア系のボスポロス王国が成立した。ローマ帝国の支配もこの地におよんだが、ゲルマン民族移動期にゴート族が入り、さらにフン人の移動の後、6~10世紀にはハザール=カガン国という遊牧国家がこの付近一帯を支配した。13世紀中ごろにモンゴル人が大遠征を行ってこの地方に侵入し、キプチャク=ハン国が建てられ、その領土となった。14世紀ごろからキプチャク=ハン国が弱体化する中で、15世紀にいくつかの地方政権が成立した。

クリム=ハン国

 キプチャク=ハン国が分解する中で、クリミア半島にはクリミア=タタール人クリム=ハン国を成立させた。キプチャク=ハン国はイスラーム化していたので、クリム=ハン国もイスラーム教を継承し、同じイスラーム教国のオスマン帝国の保護下に入り、その宗主権のもとにあった。

ロシアの南下

 一方、ロシアはかつてのタタールのくびきから脱してロシア人国家を成立させ、ロマノフ朝のもとで大国化の道を歩み始め、アジア系民族の支配する黒海北岸のウクライナを解放し、さらに黒海方面に進出することを悲願としていた。
 17世紀にピョートル1世のもとで南下政策を進め、1696年には黒海の北につながるアゾフを占領した。

第1次ロシア=トルコ戦争

 さらに、エカチェリーナ2世1768年、クリミア半島の領有をねらって、オスマン帝国に宣戦した。これを第1次ロシア=トルコ戦争といい、ロシアは陸上と海上でオスマン帝国軍を破り、1774年キュチュク=カイナルジャ条約で講和し、それによってクリム=ハン国の保護権を獲得した。
 しかし、クリム=ハン国のクリミア=タタール人は依然としてオスマン帝国のスルタンをカリフとして認め、それに従う姿勢を崩さなかった。そこでロシアのエカチェリーナ2世は将軍ポチョムキンを派遣して、1783年に強制的にクリム=ハン国を併合し、ロシア化をはかった。

第2次ロシア=トルコ戦争

 そのため多くのクリミア=タタール人がオスマン帝国に逃れ、その保護を求めた。オスマン帝国はクリミア半島及び黒海北岸からのロシア軍の撤退を要求、ロシアはそれを拒否して1787年、ロシア=トルコ戦争が再開された。これを第2次ロシア=トルコ戦争という。この戦争では、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を支援し、オーストリアがロシアを支持するという、東方問題という国際問題へと転化した。
 ロシア軍は陸軍を主体に戦い、イズマイル要塞を陥れ、イスタンブル(ロシア側はコンスタンチノープルと称した)に迫った。イギリスとスウェーデンが戦争から手を引いたため、孤立したオスマン帝国は1792年、講和に応じた。このヤッシーの和約で、オスマン帝国は正式にロシアのクリミア併合を認め、ドニエストル川とブグ川の間を割譲した。

クリミア戦争

 19世紀に入るとギリシアの独立や、エジプト=トルコ戦争など、オスマン帝国の弱体化が明らかになり、ヨーロッパ列強の眼が東方に注がれるようになった。それが東方問題といわれる不安定要素となった。ついにロシアのニコライ1世は、1853年に一気にイスタンブルから地中海方面への突破を狙い、オスマン帝国に宣戦し、クリミア戦争が勃発した。それを阻止するため、イギリス・フランス、さらにサルデーニャ王国が参加しオスマン帝国を支援、ロシア軍のセヴァストーポリ要塞に総攻撃をかけた。戦争は激戦となったが、装備の近代化が遅れていたロシア軍が敗北、1856年、パリ講和会議が開催され、講和条約としてパリ条約が締結された。この条約でオスマン帝国の領土が保全されると共に、ドナウ川の航行の自由、黒海中立化が確認され、その他ロシアの後退措置が執られてそのなんかの勢いはくじかれた。

ヤルタ会談

 1945年2月、第二次世界大戦後の世界史のあり方を規定することになった連合国首脳によるヤルタ会談が開催された。ヤルタはクリミア半島の先端にあり、ロシアで最も温暖な地であり、保養地として有名であった。ヤルタが選ばれた理由は、対独戦争に忙殺されるスターリンがソ連領を離れられないと英米首脳に申し入れ、病身のローズヴェルトに配慮し、温暖な地が選ばれた。
 会場となったロマノフ王家のリヴァディア離宮は、1860年代にロシア皇帝アレクサンドル2世がマリア皇后の健康のために建てたもので、小ぶりではあるがサンクト=ペテルブルクの宮殿とは違った清楚な趣のある白亜の宮殿で会った。<黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.227>

ウクライナに編入

 第二次世界大戦後の1954年、ソ連のフルシチョフ第一書記の時に、クリミア半島はロシアからソ連を構成する一共和国であるウクライナ共和国に移管された。これはロシア人の多いクリミア半島をウクライナに移管させることで、ウクライナのロシア人比率を高めようとしたものであった。<黒川『同上』 p.240>

クリミア領有問題

 1991年12月、ソ連の解体に伴って、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ三国首脳が協議したベロべージ会談では、独立国家共同体(CIS)の結成と同時に国境の再確認が行われた。そのとき、ロシアはクリミア半島の領有を主張したが、ウクライナ共和国は1954年に移管されていることを根拠に領有の維持を主張、意見が対立した。もう一つの問題である核の保有を維持することを優先したロシアは、ウクライナの核保有を認めない代わりに、そのクリミア半島領有を認めた。そのため、ロシアはヤルタの保養地も、セヴァストーポリも失うことになり、黒海への出口をふさがれる格好となった。
 → ウクライナ共和国 オレンジ革命とクリミア危機
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